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お坊さんの小話(法話)
〜浄土真宗〜

其の三十四
【無荘厳(飾らない)】
[2010/02]

 「仏間に飾ってあるお爺ちゃんやお祖母ちゃんの写真に半紙貼らんなんぞ!…それから飾ってあるお人形さんにも…目があるものはダメだからな!鴨居に掲げている額や表彰状にもやぞ!」枕経に参じたお宅で、長老格らしきお年寄りが指示していた。仏間はみるみる間に白い半紙で埋め尽くされていった。

 通夜、葬儀が自宅で執り行われていた十数年前までは、普通に見慣れた光景だった。が、近年ではほとんど見ることがなくなってしまった。通夜・葬儀も自宅から地域の公民館やお寺の本堂。そこから葬儀社の会館へと移り営まれるようになって、今では良きにつけ悪きにつけ、昔からのしきたりや慣習、習慣などが忘れさられた時代になってきた。しかし、どれだけ時代が移り変わろうと…変わってはいけないもの、忘れてはいけないものがあるはずです。

 では、白い半紙で『飾ってある』ものが『隠された』この仏間は、いったい何を現わしているのでしょうか?

 浄土真宗には『無荘厳』と云う言葉があります。『荘厳(飾る)し無い』‐『飾らない』ことで、慎む心、慈しむ心、哀しみの心などを示す表現方法です。ではなぜ?飾らないことが、この表現方法なのでしょうか?

 それは、こう云うことなのです。今、あなたの愛する子供が、夫が、妻が、両親が、恋人が亡くなったとしましょう。嫌なことですが、想像してみてください。その時に…あなたが女性なら…今日お通夜だから、たくさんの人に会わなくてはならないから…今からエステに行って綺麗になってなくちゃと思いますか?綺麗に口紅を塗って、アイラインを入れて、きちんと化粧する気持ちになれますか?男性でもそうです。今から床屋へ行って整髪してくる気になれますか?花一輪飾る気に、掛け軸1つ飾る気になれますか?そんな気持ちに、なれるはずなどないはずです!愛おしければ愛おしいほど…ただ何も出来ず、茫然として、泣いているしかない!それが現実だと思います。だから『飾らない』のです。だから『飾らない』ことで悲しみや慈しみや深い情愛などを現すのです。

 白い半紙で埋め尽くされた仏間は、それ自体で自分自身の深い哀しみと慈しみと情愛を現しています。この場所を、そういう場所にすると云う意味もこめて。故に、先の長老格らしきお年寄りの言っていた『目があるものはダメ』と云うのは間違いなのです。目が有ろうがが無かろうが、この場所に何も飾らないから、動かす時間や人手がないから、白い半紙を張って『取り敢えず、ココにないも無い!』 ‐無荘厳にしましたと云うことなのです。

 お通夜の後の会食にしてもそうです。北陸ではまだ精進料理ですが関東や関西の大都市では、混合、生臭です。今、自分の愛する人が亡くなって、ステーキ食べに、寿司やイタリアン、その他もろもろの美味しいもの食べに行きたいですか?食べたいですか?食事など喉を通らないはずです。手の込んだ料理など作る気にもならない。動きたくもない。でも…何か食べなくてはならない。だから…その辺にある野菜などを鍋に入れて、簡単に味噌や醤油で味をつけた、俗に言う『お煮しめ』‐精進料理なのです。ここにも『無荘厳』の『こころ』が生きています。初めに…精進料理があった訳ではないと思います。

 通夜・葬儀から満中陰(四十九日)までの喪中の様々なしきたりや習慣。地方によってその内容は大きく違います。けれどその基本は『飾る気持ちにならない』‐『無荘厳』と云うことを踏まえて考えれば、おのずとどうすれば良いか見えてくるはずです。どんな素晴らしい法話を聞こうが、どんなに励ましてもらっても、まず今は『哀しくて寂しくて辛い』のですから。

 その気持ちの現れが『無荘厳』なのです。

合掌

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