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お坊さんの小話(法話)
〜浄土真宗〜

其の五十
【学びの場】
[2010/12]

 止めに入るつもりが、ミイラ取りがミイラになってしまった。私の方に火がついた。『どうぞお帰りください。お参りしていただかなくて結構です』。その相手の60代男性にこう告げた。

 友人の僧侶のお父さんが亡くなった。急遽手伝いに走った。そのお通夜での出来事である。後輩何人かとお寺の外で弔問客の案内をしていた。後の方で言い争う声が聞こえたので行ってみた。後輩が何やらしきりと相手の男性に説明らしき話をしていた。相手の男性は興奮しているらしく、声を荒げて大声でわめき散らしていた。近づくにつれてお互いの声が言葉になってきた。『だから…しかた…ない…じゃ…ないですか!』『なにを…失礼だ…ろう』『あなた…こそ』なにやらややこしい言い争いになっているみたいである。通夜の席だろう!なにをしてる!そう注意をしようと更に近づいたその瞬間!その言葉は発っせられた……『こんな11月のミゾレの夜に、傘もささんなんし、駐車場もないし、葬儀会館ですりゃどうや!寺(自宅)でしんなんかいや!参る者の身になってみいや!』…私の頭の中で静かに音がした『プチッ!』…間髪を入れずに私の口から冒頭の言葉が飛び出した!『どうぞお帰りください…』『失礼な!参りに来てやったのに!』その男性はそう言って憤慨した。

 このやり取り。みなさんはどう感じられるだろうか?

 本来、通夜や葬儀へのお参り(お悔やみ)は『ご招待』ではない。自分に縁のある人の死、または縁ある人の家族の死に対して『自主的』にお参りに行くものである。決して参りに来てやった!ではない。お参りに来させてもらった!なのだ。自分の友人が亡くなって、その通夜で雨がどうだとか、傘がどうだとか、駐車場がどうだとか言うだろうか?自分にとって大切で大事な人であればあるほど、槍が降ろうが何が降ろうが、河原でしようが、山の頂上でしようが、飛んでいかねばならないのではないだろうか。いや、飛んで行きたくなるはずなのだ。こう言ったなら、必ず『ギリ』で嫌々参列する通夜・葬儀もあるわい!と反論する人がいる。けれど『ギリ』で参列するのなら、尚更文句を言うべきではない。

 なぜなら…『ギリ』で来てるのだから。結局ギリで来ていると云うことは『自分のため』に来ているのだから。お参りに行かなければマズイとか、顔を見せとかないと仕事に都合が悪いとか、近所の手前行こうとか、その他諸々…。自分のために来ているのに何を文句を言う必要があろか!元来…ギリは『義理』…『義』と『理』を立てると云うことだから、それは『人として守るべき正しい道』『すじを通す』と云うことである。反論した方は『嫌々・仕方ない』の意味で使われているが、いかがなものか…。

 今から何千年も前…人がまだ人となっていない時代…人の形をした白骨の胸に花が置いてある化石が出土されたと言う。遠い人の祖先…猿と代わらない時代にさえ、死者に花を手向ける『こころ』があった。失ってはいけない『こころ』が、今失われようとしている。その現れが『参るもんの身になってみろ』に集約されているように感じてならないのは私だけだろうか。

 浄土真宗で云うところの通夜・葬儀は、『死』を通して『生きる』と云うことを、亡くなった人から『教えてもらう』儀式である。産まれ…成長し…老いていき…そして死す。この人の一生の中で、悩み、苦しみ、泣き…怒り、笑い、喜び…裏切り、騙し、あざけり…それでも、愛し、慈しみ、助け合い、支え合って生きている。これぞ人生と言わずして何を言うのだろう。この様々な出来事をすべて背負って生活する。このことが『生きている』『死んでいく』と云うことなのだど気づかさせてもらう大切な儀式である。私たちは、その事を忘れて『お悔やみ』に決して参列すべきではない。

 今年に入って、『葬儀なんていらない』と云う本が爆発的に売れているらしい。と同時に『葬儀は必要だ』と云う本も爆発的に売れいる。滑稽な話である。いるとか、いらないとか、そもそも議論事態が無駄である。死から学ぶ!いや、縁ある人の死からしか学べないものがある。そこに横たわる物言わぬ人こそ、誰よりも雄弁に私たちに 人生を語ってくれていることに、私たちは気づかなければならない。

合掌

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