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お坊さんの小話(法話)
〜浄土真宗〜

其の六十六
【二つの情(葬式の意味・1)】
[2012/06]

 同級生の僧侶から電話があった。内容はこうである。

 新聞のお悔やみ欄で『葬式終了しました』の知らせを見た。友人の父親だった。急ぎ自宅に駆けつけた。玄関先で迎える友人に、なぜ知らせんかった?お前の親父さんには俺も世話になったのに…と詰め寄った。友人いわく…誰にも知らせず(親戚兄弟、友人にも)家族で葬式を出してくれという父親の遺言だった。だから『家族葬』にしたと。

 言いたいことはあったが、取り急ぎお経を一巻あげさせて欲しい(読経のこと)と頼み仏間に通してもらった。読経を終えて、お参りしていた友人の方に向き直ったとき、その友人から思いがけない言葉がもれた。

 『お経をあげてもらって、なんか、これでケジメがついたと言うか、落ち着いたと言うか、モヤモヤした気持ちがすっきりした。それにお前がお参りに来てくれて嬉しかった。ありがとう』と…。

 タカ(私のこと)、これどう思う…何か思い詰めた様子の電話だった。僧侶として、その友達の友人として心に期するところがあるのだろことは容易に想像できた。

 残された家族が、亡くなった人の生前の意思を尊重しようとすることは、しごく当たり前のことである。それが愛する人であればあるほど、その意思を出来るだけ全うしようと懸命になるはずである。

 人の『情(じょう)』とはそういうものである。私自身もそうである。ただ…一点…『誰にも知らせない』このことに関しては疑問がある。

 葬式は『誰のため』に執り行っているのだろうか?そのことをもう一度考えてみなければならない。みなさんは『だれ』のためだと思われますか?ほとんどの人が、亡くなった人のためと答えるのではないでしょうか。実は葬式は『生きている、娑婆に残された私』のために執り行われているのです。そんなこと初めて聞いたと言われる方も多いと思います。しかし本当のことなのです。

 大切で大事な愛する人の死は、辛く悲しく苦しいものです。たとえ、お医者さんから、あと一年の命ですと言われて覚悟をしていても、一ヶ月と言われ覚悟をしていても、そんな覚悟など愛する人の死の前では吹き飛んでしまいます。

 檀家さんの18歳の女の子の心の叫びを聞いたことがあります。

『みんな幽霊は怖いって言うけど私は怖くない。幽霊でもなんでもいい。お父さん出てきてくれないかなぁ。なんで死んじゃったんだろぉ』

愛する人の死とはこういうものです。頭では分かっていても身体が、心が、受け入れてくれません。

 だからこそ、お葬式をするのです。『式(しき)』を。式をすることによって、愛する人の死をなんとか受け入れていこうとするのです。『お葬式』を執り行うことによって『本当に亡くなったんだ』と自分自身に言い聞かせるために。それこそ『覚悟』するために。

 もともと『成人式』にしても『結婚式』にしても、『入社式』や『卒業式』。およそ『式』と名のつくものは、その式が冠している名をしっかりと自分自身の胸に刻み込むためにあるのです。

 お葬式を執り行ったからといって、すぐ死を受け入れられるものではありません。人の心、情とはそんな簡単なものではないからです。だからこそ、最後の別れが必要なのです。なければならないのです。なければ私たちは途方にくれてしまうのです。これは何も亡くなった人の家族(近親者)にだけ起こることではないはずです。亡くなった人の友達、恩師、弟子、恋人、お世話になった人、関わりを持った人、あらゆる縁ある人に起こることなのです。

 想像してみてください。あなたの恋人が、恋人でなくても結構です。あなたにとって深い縁ある人が、もし自分に知らされずに葬式が終了していたら…。自分の気持ちを整理できるでしょうか?納得できるでしょうか?なぜ知らせてくれなかったと一言、言いたくなりませんか?

 ここに家族(近親者)とは別のもうひとつの『情(じょう)』があります。

 亡くなった人が父親でも母親でも、兄でも弟でも、姉でも妹でも、自分が産んだ子供でも、どんなに身近な人でも、その人が誰と関わり何をしていたかをすべて知り得ることは不可能です。だから、亡くなった人の死を広く伝えるのです。だから、通夜葬式は招待ではなく誰がお参りしても良いことになっているのです。

 こんなお話があります。

 ある御夫婦の26歳の息子さんが亡くなりました。通夜の晩、式場に茶髪の耳にピアスをした若い男女が数人弔問に訪れました。最初は『なんだコイツらは』と息子さんの父親は思ったそうです。息子さんのバンド仲間だと知ったのはあとになってからでした。通夜式が終わったあと、バンド仲間の代表の男性が父親に挨拶に来ました。

 そしてこう言ったそうです。

『お父さん、無理なお願いかもしれませんが、今晩一晩、俺たちをアイツの前に居させてくれませんか。朝までアイツと飲み明かしたいんで…』

『出来れば、お父さんも一緒に。アイツの事をお父さんに話たいし、お父さんからアイツの事も聞きたいし』と。

 息子さんのお棺の前で、息子の友達と過ごす時間。1時間…2時間…時間がたつにつれ、父親の胸は熱くなり涙が止まらなくなりました。目の前にいる息子の友人たちに感謝せずにはいられなくなりました。

『息子にはこんなにおまえを思ってくれる友達がいたのか。幸せだっんだな。ありがとう』

『知らなかった。そのことを教えてくれて、ありがとう』

『私の知らない息子の姿を見せてくれて、ありがとう』

ただただ『ありがとう』しか出てこなかったそうです。

息子さんの友人たちも、御両親に対して『ありがとう』しか出てこなかったそうです。

『(アイツと)一緒に居させてくれて、ありがとう』

『(アイツのことを)聞かせてくれて、ありがとう』

 自分の子供を失って深い悲しみの中にいる御両親に、ありがとうと言わせ、おまえは幸せだったんだなと言わせたのは、紛れもなくお悔やみに訪れた友人たちです。かけがいのない友を失って悲しみにくれる息子さんの友達に、ありがとうと言わせたのは通夜葬式を執り行なったお父さんです。そして、友人と両親を結びつけたのは、亡くなったその人に他なりません。

『広く死を知らせる』ということはこういうことなのです。

 葬式の規模、祭壇の大小、お供え(お花)の数、僧侶の人数、式場の場所、葬式の形態、そんなことをとやかく言っているのではありません。

 二つの『情(じょう)』のお互いが、お骨になる前の、まだ生きていた時のままの姿に会い、別れを言い、語らい、生と死を感じ、亡くなった人の人生を語らい、自分の人生を考えていく。そういう『場』が必要だと言っているのです。

 さまざまな家庭、さまざまな環境、さまざまな状況。経済状態や家族の有無。『死』取り巻く環境はさまざまなです。一つとして同じということはありません。さまざまな送り方があることを責めているのではありません。そのことは十分に知っているつもりです。

 だからこそ…二つの情は二つで一つだと気づいて欲しいのです。どちらかがかけてもいけないのだと。自らの情が深ければ深いほど、もうひとつの情も深いのだということを、知っておいて欲しいのです。そのことを、私たちは、忘れてはいけないのではないでしょうか?

 娑婆に残された縁あるすべての人が、大切な人の死という悲しみの中から、また顔をあげ、自分の人生という道を一歩一歩、歩いていくために、『広く死を知らせる』というこのことは必要なのではないでしょうか。

 みなさんは、どう思われますか……

合掌

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