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お坊さんの小話(法話)
〜浄土真宗〜

其の七十三
【戒名と法名】
[2012/10]

 そこまでビックリしなくても…と云うくらいビックリされてしまった。ある地区の主催する仏教講座で講師をしたときのことである。私の第一声に、60人ほどの参加者、50代から80代までの幅広い年齢の男女が、ほぼ全員唸った。

 続く第二声で、今度は全員が唸った。

第一声はこうである。

『戒名と法名は違うんですよ』

そして第二声は

『戒名も法名も死んだ人の名前ではないんですよ』

である。

 戒名も法名も、ともに僧侶を表す言葉で、お釈迦様(釈尊)の弟子あるという名前である。二つともそのことにかわりわない。その意味では同じである。

 しかし…

 『戒名』は、『戒律を重んじる僧侶の集団、その集団に属する僧侶としての名前の総称』である。

 その宗派宗派で定められている『戒律』を守り、その戒律を実践していくことで、生・老・病・死という思いどうりにならない人生、限りある命を生きる人生、その人生を、どう生きていけばよいかに気づいていきましょうという僧侶の集団。その集団に属するお釈迦様の弟子の名前と言える。

 『法名』は、この戒律に重きを置くのではなく、お釈迦様から脈々と説かれ受け継がれてきた『仏法(教え)』。つまり『物事の考え方・捉え方・見方』を『聞法(もんぽう)』=『聞く・問う・考える』することによって、生・老・病・死の自分の思い通りにならない、限りある命を生きる私たちが、限りある命をどう生きていけばよいかに気づいていきましょうという僧侶の集団。その集団に属するお釈迦様の弟子の名前である。

 お分かり頂けただろうか?法名と戒名は、実は似て非なるものなのである。

 そして私の属する浄土真宗は後者の『法』を聞きましょうという集団である。ゆえに私のこの『釈完修』と言う名前は『法名』である。

 前述したことが、お分かり頂ければ、おのずと戒名も法名も死んだ人の名前でないことは理解していただけるのではないだろうか…

 キリスト教に入信すれば、『クリスチャンネーム』と言う名前がいただけることは多くの人がご存知のことと思う。

 キリストの弟子となり、キリスト教の教えに従って生きていく、キリスト教の教えを生きていくその生き方の中心にしていく。その覚悟の名前をいただくのである。

戒名も法名も、いわば『ブッデストネーム』なのである。これならば、よりその意味がお分かりいただけると思う。

 故に、生きているときに、息を引き取ってからではなく、息をしている今、浄土真宗の門信徒ならば『法名』をいただいているのが好ましいと言える。

 『法名(ブッデストネーム)』を名のり、仏教者としての自覚のもと『生きる 』ということを見つめ考えていくのである。本来、〇〇寺の門信徒(檀家)とは、そういう集団であるべきなのだから。当然〇〇寺所属の僧侶も含めてであることは言うまでもない。

 法名を頂いたからといって、その日から聖人君子のごとく生きろというのではない。そんなことは出来るはずもない。よく何を言われても怒らない人とか、酷いことをされても笑っていられる人を、『仏さんみたいな人』と言うが、何を言われても怒らなかったり、何をされても笑っていたりするなら、それは『人間(ひと)』ではない。そういうことを仏教(特に浄土真宗)は求めているのではない。

 法名をさずかる。お釈迦様の弟子になるということは、『生きる』ということに『真剣』になることである。真剣になるということは、喜怒哀楽…喜び怒り哀しみ楽しむその中で、悩み、苦しみ、もがき、あがく。そんな人間としての一途な生き方をしてくださいということである。この『一途な生き方』があればこそ、人は様々なことを、考え、問い、聞き、気づいていけると言える。

 僧侶として法衣を着て法務(読経や本堂の掃除や法要の執行)に携わるものも、畑を耕し田を育てる人も、漁をして生計をたてている人も、会社という組織に入り仕事をしている人も、専業主婦も学生も、定年を迎え過ごしている人も、役人も政治家も、一人一人がその自分の場所に居ながら、いや居ながらと云うより、その自分の場所にしっかりと足をつけて『仏法』を聞き『一途に生きる』。

 これが浄土真宗の『法名』をいただくという意味である。

 ここに、浄土真宗が『在家仏教』……僧侶として山やお寺に籠るのではなく、一般の生活をしながら社会の中で生き、その中で、みな共に『仏法』を聞き、『生きる』と云うことと向き合っていく……と呼ばれるゆえんがある。

 子供の頃、父親に言われたことがある。マンガばっかり読んでいる私に、活字を読めとはいわん。マンガでもテレビでも映画でもかまわん。しかし、マンガを読むなら読むで『一生懸命』読め!作者が何を伝えたいかをちゃんと読みとれ!必ずその中(主人公・脇役・その他登場人物・設定・ストーリー)に、読み手に伝えたいことが描かれているんだからと。

 お酒が飲めるような歳になったらこう言われた…酒も遊びも仕事も一生懸命やれ、一生懸命酒を飲め!遊びも遊ぶときは一生懸命遊べ!そして一生懸命仕事しろ!と。

『一生懸命』は『考える』を産みます。

『考える』は『問い』を産みます。

『問い』は『聞く』を産みます。

『聞く』は『気づき』を産みます。

そして、気づけば、一生懸命生きざるをえなくなります。

そして一生懸命に生きれば、再び考えざるをえなくなります。

この果てしない繰り返しの生き方が、浄土真宗において、法名をいただいて『生』を生きるということなのです。

合掌

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