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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十八
【 涙 】

・なんでお父さん死んじゃったんだろう?

・お母さんはどこにいるんですか?

・息子はなぜ?死んでしまったんでしょう。

父親を亡くした娘さんの言葉。

お母さんを亡くした息子さんの言葉。

子供さんを亡くした母親の言葉。

愛する人、大切な人を失った人たちの『問い』は、いつも胸に深く突き刺ささります。幾度となく問われたこの『問い』に…

たとえどんな『答え』を語ったところで、悲しみの真っ只中にいる人にとって、その答えは無に等しいものとなります。

愛する人との、死と云う別れは、それほど辛く苦しいものです。

だからこそ…ひとつだけ、忘れてはならないことがあるのです。

だからこそ…ひとつだけ、覚えておいて欲しいことがあるのです。

 父親を亡くし、その死を、どう受けとめていけばよいのか悩み苦しんでいる女の子がいました。赤ん坊の頃から知っている女の子です。今は二十歳になっています。その子に宛てたメールがあります。

こんなメールです。

時間が過ぎても…

何年たっても…

お父さんが居なくなった辛さや、さびしさ、悲しさはなくならないと思う。

だって家族でお父さんなんだから…

だから、今は、その辛さや悲しさ、さびしさを無理に無くそうとしないでください。

よけいに苦しくなるから…

お父さんが亡くなって悲しいけれど…

お父さんは優しさも愛情も、楽しいことも嬉しいことも、貴女に与えてくれたことを忘れないでいてほしいです。

姿はいなくなってしまったけれど、貴女を、家族を思っているお父さんの気持ちは、ずっとずっと、貴女と一緒にいるはずだから…

決してお父さんはいなくなったんじゃないからね。

貴女と一緒にいるんだから。

きっと、貴方が笑って生活することを一番お父さんは喜ぶと思うよ。

そのことは覚えておいてほしいです。

 しばらくして、女の子からメールが届きました。メールを読んで涙がとまらなくなりました。気持ちの良い涙でした。ありがとうございます。

四十九日が終わっても、一年が過ぎても、亡くなった愛する人を思い出すたびに涙は流れるでしょう。胸が痛くなるでしょう。

けれど、その涙が、返信された女の子の言う『気持ちのよい涙』なら、ある意味それは、自分自身が愛する人の死を受け止めた涙です。

亡くなった愛する人が、死んでもなお自分を思っていてくれると信じる涙です。

悲しくて、せつなくて、けれど、どこかあたたかい涙です。

 人は必ず死を迎えます。さまざまな年齢で

さまざまな理由で

さまざまな時間で

さまざまな場所で

そしてそれは、自分が生きている限り、愛する人の死という形で必ず会っていかなければならない事です。どれだけ拒んでも、避けることは許されない事です。

 ならば、深い悲しみに堕ちた暗闇の中で、絶望と苦しみ満ちて流す涙より、深い悲しみと辛さに満ちながらも、愛する人の思いが自分にかけられていると信じて流す涙の方が、より良い涙なのではないでしょうか。

 多くの人が、そんなことは『信じれない』と言うかもしれません。大多数の人が『信じない』と言うかもしれません。亡くなった人が、亡くなってもなお自分を思っていてくれるなんてと…。

 けれど、私は実感しているのです。十年以上も前に亡くなった祖母が、今でも私を、心配し、愛し、導いてくれていることを。

 母親代わりに私を育ててくれた祖母のことは、この小話のサイトでも何度かお話させていただいているのでご存じ方もいらっしやると思います。その祖母の躾に、履き物はきちんと揃えて上がれというのがありました。子供の頃、よく叱られたものです。

『修! いつもちゃんと靴 そろえてあがれと言うとるやろ!』

『うるさい! よその家にいったらちゃんとするわい』

『だらぶち! うち(自分の家)でも出来んことが、よそ(他の家)で出来るか!』

『そんなに揃えるのが面倒なら、始めから、後ろ向きであがれ! そしたら履き物はちゃんと前向いとるから!』

なるほど理屈である。

私が将来僧侶となり、月参りやご法事にお邪魔するさいの時の事を思っての躾であった。

 今、大人になって実際にお参りお邪魔するさいには、後ろ向きになって履き物も脱いでお宅に上がっている。

この後ろ向きで履き物を脱ぐ時…

そこに祖母の姿がある。

そこに祖母の声がする。

笑いながら、そやそやババの言うこと利いとるなと誉めてくれている姿がある。

そう感じる私は、頭がおかしいのだろうか?

祖母の姿や声を感じる私は、気が変なのだろうか?

この話をすると、殆どの人が優しい眼差しと、柔らかな表情になる。

 それは、だれもが、みな、亡くなった大切な人の思いが、私が大切に思った思いが、私が大切に思われた思いが、その人が亡くなったからといって『無』になったと思っていないからなのではないでしょうか。

 本当は、皆、心の奥底で、自分にかけられた、父や母・祖父や祖母・夫や妻・子や孫・友達や先輩の『願い』や『想い』が ずっとずっと『生きて』いることを知っているのです。

そうでなければ、昔から言われている…

『こんな事をしたら、死んだお袋に叱られる』

『死んだオヤジに顔向けできない』等々の言葉は産まれて来ないはずだから。

 『あなたの人生を、たとえどんな苦難な人生でも、諦めず、投げ出さず、くさらずに、あなたなりに精一杯に生きてくれ』愛する亡くなった人に、そう願われいるその事を『信じて生きて行く 』そのことが、冒頭の『問い』に対する、ある意味、『答え』だと思うのです。

釋 完修
合掌
[2014/01]

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