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お坊さんの小話(法話)
〜浄土真宗〜

其の八十九
【挨拶(あいさつ)】
[2014/02]

 時は某月・某日・午後1時…友人は悩んでいた。それもかなり真剣に。

 ここ数年お昼は妻が作ってくれるお弁当だった。ありがたいことに、嫌な顔ひとつせずに毎日作ってくれた。

なのに…

今日は…

そのお弁当を…

家に忘れてきてしまった。初めてのことだった。

ただ…悩んでいるのはその事ではなかった。真剣に悩んでいるのは、お昼に何を食べるかということだった。それも、吉野家にするべきか、松屋にするべきかで悩んでいたのである。さんざん悩んだあげく、吉野家はよく行くからという理由で松屋に決まった。

 同月・同日・午後1時30分…友人は悩んでいた。

それもかなり真剣に。

松屋の店内で…。

今度は何を食べるかで悩んでいた。1時半でも店内は若い人たちでほぼ満席だった。牛丼、うな丼、カレーあいがけ丼…当たり前のことだが、みなそれぞれの品を注文していた。悩んだあげく、元気をつけようという理由でうな丼に決めた。

 美味しく食事を済ませた後レジに支払いに向かった。支払いを済ませ、出口に向かって歩きながら、彼は大きな声で『ごちそうさま』と言った。

すると…店内にいた若者全員が食べるのをやめて友人の方を見たという。レジの女の子に至っては『ありがとうございます』の声かけが、『あ、ありゃとう、ございます』と噛んでしまった。

 『ごちそうさま』と言って帰る人を、たぶん彼らは見たことなかったんじゃないかな、俺自身も最近聞いたことがないからとは、その友人の弁である。

 同じような話をもうひとつ。

 午後3時すぎのラーメン店。バタバタしていてお昼を食べ損ねていた。夕食まで我慢と思っていたが、どうにもこうにもお腹がへって、目についたラーメン屋さんに飛び込んだ。店内には時間も時間だったので私一人であった。

注文したラーメンがカウンターに届いた。

急ぎ手を合わせて『いただきます』と言って食べ始めた。

しばらくして、『すみません』と後ろから声をかけられた。振り返ると男性が一人たっていた。そのお店の店長さんだった。

『何か?』

私の返事に『食事中なのでどうしょうかと思ったんですが』と前置きをして店長さんが話はじめた。

『ここのとこ、ついぞ、いただきますと言って手を合わせて食事をする人など見たことがなかった。自分の作ったラーメンにそうやって食べてもらえるなんて感激してしまった。どうしても一言お礼が言いたくて参上しました』とのことだった。

 友人の『ごちそうさま』も、私の『いただきます』も、母親や祖母から躾(しつけ)られ、子供のときから行っているごく自然な習慣である。大人になるまで、その意味さえ考えることのないほど体に覚え込まされた躾である。どこの家庭でもごく普通に親に言われ躾られたはずである。

『こんにちは』『こんにちは』

『いただきます』『おあがりなさい』

『ごちそうさまでした』『おそまつさまでした』

『おはよう』『おはよう』

『おやすみなさい』『おやすみなさい』

『いってきます』『気をつけて』

『ただいま』『お帰りなさい』

『ありがとう』『どういたしまして』

『ごめんなさい』『わかったよ』

日常生活で交わされるこれらの言葉のやりとりは、ただ単に言葉のやりとりではない。

そこにやりとりされているのは言葉ではない。

やりとりされているのは、相手を思いやる『気持ち』である。

それを『思いやり』といい

それを『優しさ』といい

それを『慈しみ』といい

それを『愛情』といい

それを『感謝』といい

それを『反省』と言うのである。

 いつの頃からか、この気持ちのやりとりは家庭から、いや社会から消えて行きました。当然すべての家庭や社会全体からとは言いません。しかし、大部分の家庭や社会から消えて行きました。就職や出世、学業や学歴、試験や資格にそんなものは必要ないと云う理由で…。言うなれば世の中を生きて行くのに、そんなものは何の役にもたたないとしたのです。

 しかし、本当は世の中を生きて行く上で最も必要なものであったのに。そのことに気づくこともなく、捨て去ってしまいました。

 結果…社会(世の中)を構成する上で最も最小の単位、けれど社会、いや国や世界を構成する上で最も基本となる重要な単位。『家庭(家族)』が壊れてしまいました。家庭(家族)の中に、言葉に宿った『気持ち』のやりとりがなくなってしまったから。

 挨拶…互いに思いやる心をやりとりするこの行為を、バカにする人はたくさんいます。何の役にもたたないと、子供に教えない親もたくさんいます。けれど、そうではないと気づき始めた人も親もたくさんいます。心をやりとりする挨拶が、子供の頃から教えられたこのことが、実は人を豊かな心を持つ人間に育てて行くことに繋がっているのだと云うことに。

 そして、心豊かな人間に育つように、その基礎となる『気持ち』を教えることが実は、家庭での躾(しつけ)と言われるものなのです。

 『三つ子の魂百まで』と諺にあるように、幼いころに、教えられたこと、学んだこと、言われたことや経験したことは、大人になっても忘れません。いえ、例え忘れたとしても、意識の奥で、身体の隅で覚えています。

だから…と前述した、挨拶を含めた家庭の躾を役にたたないと唱える人たちは言うでしょう…学業と言われる勉強に力を入れるんじゃないかと。

だからこそ…と…あえて言うのです。車に両輪が必要なように家庭の躾も大切なのだと。車が片方の車輪だけでは走ることが出来ないよう、人も片方の車輪だけでは、人間になれないのです。

 挨拶を含めた躾…

人をいじめてはいけない。

卑怯なことをしてはいけない。

物を盗んではいけない。

嘘をついてはいけない。

人には親切にしなくてはいけない。

人を殺してはいけない…

等々…

これらは、1+1が2であるように、「空」という漢字は「そら」と読むのだというように、人が獣ではなく人になるためには、教え育てなければならないのです。親が、大人が…。

 もう、多くの人が気づき始めているはずです。

疎かにしてきた家庭の躾が…

人をいじめ、

ズルさや卑怯なことも平気で、

当たり前ように嘘をつき、人の弱味につけこみ、

人を殺すことを何とも思わない人間を作り出していることに。

すべての基礎は家庭の中にあります。

 家庭が人を育てるのです。父親・母親の使命は重大です。父親・母親の言葉ひとつ、教えひとつ、導きひとつで子供は如何なる人にも育ってしまうのですから。

 今からでも決して遅くはありません、挨拶を含めた躾の言葉を、口に出して、交わしあいませんか?

例え相手が聞いていなくても…。口に出して言い続けませんか?根気よく、へこたれず、無駄なことだとあきらめず、そうすれば、やがてそれらは大きな流れとなって社会全体を包みこみます。

その包みこまれた社会は、必ず今とは、違う社会になっているはずですから。

合掌

*夢物語の話ではありません。時間はかかります。ある意味とてつもなく。けれど、たぶん、これが、今の殺伐とした現代社会を変えていくひとつの確実な方法だと私は信じているのです。

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