BONZE
bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の九十五
【 『善人』と『悪人』 】

 『家(家庭)の中に善人ばかりが居ると争いが絶えない。家の中に悪人ばかりが居ると笑顔が絶えない』こんな言葉を聞いたことがあります。

いつ?誰が?どこで?

聞かせてくれたのかも忘れてしまうほど昔の話です。

けれどこの言葉の中に込められている『教え』

人と人とが交わり生きて行くための『智恵』

それは今も私の中に生きています。

その『教え』は、事あるごとに私を『しかり』『支え』てくれています。

 冒頭の言葉。この言葉を読んだだけでは、『はぁ?なに言ってるん!逆やろ!』と、そんなお叱りを受けるでしょう。

当然です。

善人をいい人。悪人を悪い人と読むなら意味の通らない言葉になります。

でも、違うのです。

ここで言う善人と悪人は…

 こんなお話があります。この御夫婦のお話で、わかっていただけるのではないでしょうか。

 年末の大掃除。夫は居間の天井に付いている照明器具の蛍光灯を取り換えていた。照明器具の下に置いてあるテーブルの上に乗って。上を見ながらの作業。足元の注意がおろそかになっていた。ガシャン!!という音が足元の何かに当たった感覚と同時に聞こえた。

えっ?と足元を見てみると、妻が大事にしている花の植木鉢が粉々になって床に散乱してた。

『しまった!』脳裏に妻の怒った顔が走馬灯のように浮かんだ。と、同時に『大事にしてたのに悪いことした!』とも…

大切に大事にしていたのを十分に知っているので、『ごめんなさい』と謝れば良いものを、男とはどうしようもない生き物で、悪いと思えば思うほど、逆な言葉を吐く。

ごめんなさいの代わりに『なんで、こんなとこにこんな物置いといた!!』そんな言葉が喉までかかったその時…

妻が夫より先に言葉をかけた。

『ケガしなかった!大丈夫? 私がそんなとこに置いといたのが悪かったんやね。ごめんなさいね』

そう声をかけられた夫は…『なんでこんなとこに…』の言葉を飲み込んだ。いや言えなかった!

そして、次に、自分の口から出た、自分自身の言葉に驚いた。

『俺の方こそ悪かった!もっと気をつければ良かったんに、大事にしてたのに、すまん!』

妻に謝ったことなど何年ぶりのことだったろうと、この旦那さんは後で語った。

 これが…家の中に『悪人ばかり』だと笑顔が絶えないと言う言葉の意味である。

妻に、先にケガが無かったかと心配され、さらに私が悪かったと謝られては、自分の不注意を棚に上げて怒鳴ることなど出来るはずもない。もともと自分に非があればなおさらである。

 では…『善人ばかり』だとどうなるのだろう。

『何でこんな所に、こんな物置いたままにしてるんや!壊してしまったじゃないか!』

『怪我したらどうする!』

『何言ってるの!ちゃんと気をつけていない貴方が悪いんじゃないの!』

『私の大事なお花どうしてくれるのよ!』

善人ばかりだと、こうなるのである。

先ず、お前が悪い、俺は悪くない(善人)

何を言ってるの、貴方が悪い、私は悪くない(善人)

どこまでいっても、自分は正しくて(善人)、悪いのは自分以外の相手(悪人)。

これが…家の中に『善人ばかり』だと争いが絶えないと言う意味である。

 夫婦円満の秘訣。単なる口喧嘩。この話をそう捉える人たちもいるでしょう。でも、違うのです。

『家の中に善人…悪人…』の意味する所は、とどのつまり、自分自身で責任を背負うと言うことにつきるのです。

たとえば、家族の誰かに自分が留守番を頼んだとします。その留守番を頼まれた人が何か失敗をした。当然、留守番を頼まれた人がちゃんと留守番をする責任があります。けれど…留守番を頼んだと言う責任は頼んだ自分自身にある。

頼んだ。それはある意味、頼まれた人が何をしても、その責任を自分自身が負わねばならないという責任が自分にかかってくるということなのです。故に、やみくもに留守番を頼んだ人を責めるのは、どうなのだろう?と…

 一億人総クレーム時代だそうです。みんなが自分自身の責任を言わず、必ず誰か他に責任を転化する人を探す。言われてみれば、確かにである。思い当たる例は沢山ある。

 百円ライターの件もそうである。小さい子供が百円ライターで火事を出した。百円ライターを子供がさわっても火を灯せなくせよ。多くの人がそう意見した。

結果、ライターに安全装置がつき、お年寄りの力では火を灯せなくなった。でも、ライターを改良する前に、まず親が,子供に火遊びをしないように躾、なおかつ子供の手の届かないところに火を点けれる物を置かないように注意することが先である。

 柵のない池に子供が落ちて溺れた。欄干のない階段から子供が落ちて怪我をした。すぐにテレビのコメンテーターは、こう言うのである。行政、市、その場所の管理者がイケないのだと。確かに危険な場所に柵や欄干は必要である。けれど…これも、柵や欄干の在る無しに関わらず、まず親が危険な場所で遊ぶなと教え躾ることが先である。

 『自己愛型ご都合主義』こんな言葉がある。自分自身で責任を負わず、物事を自分の都合の良いように解釈、理解するものの考え方である。大人が最もやってはイケない考え方である。と言うより、これをしないのを大人と言うのであろう。

 『家(家庭)の中に善人ばかりが居ると争いが絶えない。家の中に悪人ばかりが居ると笑顔が絶えない』

と言う前述した言葉は、自己愛型ご都合主義とは真逆の考え方だと言える。

まず、自分自身がの責任を知る!そのあとで、それぞれの『責』を問うていく!そうでなければ、さまざまな世の中で起こる出来事は、大きな事も、小さな事も、遠い事も、身近な事も、少しも良く成っては行かない。

様々な問題・矛盾・不振が立ちこめている現在の日本。

そこに住む私たちに今一番求められている事ではないだろうか!

釋 完修
合掌
[2017/06]

小話のご意見・ご感想はこちらまでメールしてください。


↑TOP