【書き下し】
三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといえり。
【現代語訳】
また、念仏するだけでは、頼(たよ)りなく不信を感じることがあります。それは、信心の中に疑いがおこり、迷いが出てくるからです。でも、そんな疑いや迷いの心をバネにして、ますます聞法に励めば、念仏の確かさに改めて気付きます。
念仏は、お釈迦さまが生きておられた正法(しょうぼう)の時でも、亡くなって五百年のちの像法(ぞうほう)の時でも、千年以上が過ぎた末法(まっぽう)の時でも、通用する確かな教えです。
たとえ一生の間、悪を重ねた人間でも、弥陀の誓願(せいがん)を信じて念仏するならば、浄土に生まれて悟りを開く身になることが約束されます。
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