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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の二
【 五体満足 】

 桜で知られる奈良県吉野の里近郊にある私立の重度障害者施設「S園」。この園の教師である弟から久しぶりに電話がかかってきた。内容はある少年の死についての事だった。

 『兄貴、「余命一年」ってどう思う?』受話器の向こうで弟が話始めた…。重度の肢体不自由におかされ、治療の方法もなく、いずれくる死を待たなければならない少年の事だった。

 弟がその少年に出会ったのは昨年の夏の頃だった。母親に連れられて入園してきたその時には、すでに車イスなしでは移動することができない身体になっていた。やつれ果てた身体、手や足を動かすのもやっとの少年。けれど微笑みを絶やさない不思議な雰囲気を持つ少年だった。

 『夢の中では走ったり飛んだり跳ねたり出来るのに、目が覚めたら全然できないんだよ。オカシイネ…』嘆くわけでもなく、悔しがるわけでもなくなく、イライラするわけでもなく、ただ淡々とけれど本当に不思議そうに少年は話した。『ずっと夢の中だったらいいのになっ…』オカシイネのあとに続いた少年の言葉に胸が張り裂けそうだった。

 数日たった穏やかな日。少年を乗せた車イスを押して、園の裏手にある小高い丘に散歩に出た。目的は少年を飛んだり跳ねたりさせること。弟は少年を背負って前方に広がる丘へ走り始めた。走りながら弟は、飛び、跳ね、ジグザグに走り、歩いたり走ったり、何とか少年の身体の一部になりたいと必死だったと言う。

 弟の背で、少年は喜び、はしゃいだ。

 丘の頂上に近づいた時、少年の口から思いがけない言葉が発せられた。『お兄ちゃん汗いっぱいかいてるよ。大丈夫?僕とっても楽しかったよ。もういいよ』と。

 弟は、その時のことをこう話す。『まるで背負っていないと感じるほど軽く、歩くことすらできないたった10歳の男の子が、だいの大人の俺の身体を心配する。なんという優しさ、心の想いだろうか。それにひきかえ俺はなんだ。動けて、走れて、望んだ仕事をして、それでも毎日不平不満を言っている。なんて心が貧しいんだろ。何かで頭を殴られたような衝撃を感じた』と。

 『五体不満足』という本が今ベストセラーになっている。障害にめげず、明るく前向きに力いっぱい生きる男性の姿がその本の中で描かれている。私たちは五体満足がゆえに、不満を抱き、心貧しく、真に何が大切なのかを見失い、日々の生活を送っているのではないだろか。

 不満足が満足を生み、満足が不満足を生むというこの矛盾は一体なんだろう。

 『生きている』と『息をしている』とは違うと言った人がいる。『生きている』ということに関して言えば、はるかに障害をもつ人たちの方が生きていると言えるのではないだろうか。

 『俺たちは五体満足だよね。何してるんだろうね…』なんとも言えないため息とともに弟の電話は切れた。

 深い深い問いかけが残る電話だった。

 ただひたすらに一生懸命に生きる。今この一瞬を生きる。『生きる』と言う言葉の意味を私たちはもう一度真剣に考え、悩み、迷い、苦悩してみなければならないのではないだろうか。ほんの10歳の男の子の優しさと想いやりが、限りある命を生きている私たちが、限りある命をどう生きていけばよいのかの一つの道を示してくれたような気がした。

釋 完修
合掌
[1999/10]

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