其の六
【 愛情の沈殿物 】
「長い間喧嘩ばっかりしていたけれど、亡くなられてみると淋しくて。子どもたちもそう言うんです」
先日、あるご婦人から聞いた言葉である。彼女は二十一歳で嫁ぎ、二十五年間姑さんと暮らした。結婚すぐの頃から、人の顔見れば姑さんの悪口を言う嫁であったと人は言う。しかし、その本人が今しみじみとこう言ったのである。おそらくこの姑さんはものわかりの良い姑と思われようとはせず、大いに出しゃばりお嫁さんを叱咤訓戒した人だったのだろう。それゆえに、この姑さんは家族の人の心に強烈に残った。もし、この姑さんが若い者から嫌がられまいとして、奥へ引っ込んでいる人であったら、「亡くなられてみると淋しくて」という言葉は残った人の口から出なかっただろう。家族の中には、色々な眼や意見があって良いと思う。こんな話がある。母親は寒い日でも薄着をさせて心身を鍛えようと考える。すると年寄りが言う。「こんな雪が降っているのに寒くないかい?シャツをもう一枚着たほうがいいよ」すると、母親は内心おもしろくない。自分の教育を邪魔されたと思って、年寄りなどいない方がいいと呟く。しかし子どもの心には、その寒い朝の「おばあさんの愛情」は、子どもの心になつかしく沈殿を残すのである。「亡くなられてみると淋しくて」とそのご婦人が言ったのは、二十五年間のそうした沈殿物のためではないだろうか。
最近、「いやし系」という言葉が流行している。日本全国、みんな疲れているのだそうだ。だからこそ今、この沈殿物が必要になってくる。特に今の子どもたちにとって。雑多な現実を経験することから、人は人間というものを理解する。母親に対する古い意見あってもいい、その対立の中で子どもたちが吸収するものが必ずある。その時はマイナスにみえても、大人になってからそのマイナスがものを言うことが必ずある。おばあさんの愚痴も、あかるい昔話、ひとり言…。それら何の意味もないようにみえることが、どこかでいつか子どもの情操を養っている。
合掌
[2000/10]
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