其の七
【 「自覚」と「責任」 】
「今年は暖冬です」、そんな予報を軽く吹き飛ばす「大雪」な冬だった。二月十五日未明から降りだした雪は、朝には八十センチを越えていた。
毎年「雪害対策本部」が置かれ、おびただしい数の除雪車が設置される。ラッセル車もしかりである。街には融雪装置が埋められ、あらゆる場所から数々の情報がインターネットやマスコミを通じて伝わってくる。昭和三十八年、俗にいうサンパチの豪雪の頃とは格段に除雪に対する準備は進歩している。にもかかわらず…である。十五日からの三日間の有り様はまだ記憶に新しい。主要幹線道路は渋滞。普段は十五分で行けるところも数十分かかった。列車は止まり、コンビニの棚は空になった。文字どおり都市機能は停止した。
「なぜ」だろう。「ゆだん」という言葉が思い出される。十数年の暖冬が私たちに雪が降っても少量、そんなに積もるはずはないという思い込みを生んでいた。そして恐いのは、その「ゆだん」からくる「責任の自覚」の欠落である。「責任」を辞書で引いてみると、「引き受けてしなければならない任務」とある。朝、通勤の車と同時に出勤する除雪車。午前九時からしか動かないラッセル車。出ていなければならない時に出ていない融雪装置の水、道路状況を一向に伝えないラジオ、テレビ等々。そのどれにも「責任」という文字が見当たらない。雪が降れば当然行われることが(除雪は夜、車の少ない時間、融雪の水は雪が積もったりする前)行われない。除雪というひとつの行為に今の時代を見たような気がする。現代社会を生きる私たちに、今もっとも欠けている事がこの「責任の自覚」ではないだろうか。損や得で動くのではなく、今すべきことをすることが…。
親に成れば親として。教師になれば教師として。社会人になれば社会人として。政治家になれば政治家として。一人ひとりが成すべきことを成す。そのことが、数々ある現代社会の問題を少しでも解決する方法のひとつの方法のひとつではないだろうか。
合掌
[2001/03]
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