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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八
【 後姿 】

 「嫁も息子も、仏壇に手を合わせた事もなければ、月参りやと言っても知らん顔や。こんな事で、私がおらんようになったらどうなるんやろうね」と、たびたび言われる事がある。そんな時、決まってこう答えている。「なぁーんも心配いらんよ」と。別に気休めや、なぐさめで言っているのではない。本当に「心配いらない」のである。

 十年程前の事。あるお宅に月参りに参詣するたび、そこのおばあさんに、おじいさんの分に阿弥陀経一巻、仲の良かった友達の分に二巻、ついでに犬の分も一巻、合計四巻お参りしてほしいと言われていた。阿弥陀経を四回。四十分~五十分はかかる。ちょっとした法事なみである。そのおばあさんも、八十六歳で一生を終えた。四十九日も終り、おばあさんの月命日に参詣した時の事。阿弥陀経を一巻読経し終えて、お仏壇から向き直ろうとした時、なぁんも参らんと言われていたお嫁さんからこんな言葉が。「あのう御坊さん。うちのおばあちゃん、なんかたくさんお経あげてもたってたような気がするんですけど、今日は一回だけですか?」と。これには正直おどろいた。確かに、このお嫁さん私の記憶するかぎり一度も月参りにお参りした事などなかったからである。にもかかわらず、ちゃんと何処かで姑のしている事を見ていたのである。知らず知らずのうちにちゃんと学んでいた。それは、生前このおばあちゃんが自分のするべき事をキチンと行っていたからにはほかならない。子は親の背中を見て育つと昔から言うが、まさにそれを地でいく話であった。

 故に「なぁーんも心配ない」のである。自分が今、成すべき事をしているか否か。伝えるべき事をキチンと行っているかどうか?自分の生きている後姿をしっかりと見せて生活をして行けば、なんの心配もないのである。それは、お参り事だけの事ではない。先に生きて、死んで行く者として。それは人生をも教える事にもなる。問題は、そう私自身にある…。

釋 完修
合掌
[2002/03]

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