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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の十五
【 続ける 】

 先日、私用で輪島の叔母の家に行った。その時の話である。なんと七十六歳の叔母がメールをしているのである。これには思わず妻と顔を見合わせた。驚いた。確かに携帯電話の文字が大きかったり、操作が簡略になっている機種を使っているにしても、年代的な事を考えれば大したものだと思った。失礼だが…。

 そういえば、よく年配の人がパソコン教室に通ってインターネットをしたり、ホームページを開いたりしているという話もチラホラ耳にする。かと思えば、最近うちの親が、少し痴呆が出てきたみたいという話も同級生の間でチラホラ耳にする。同じ七十歳代でも様々である。

 『元気で長生き』…

まるで呪文のように、ある年代から上の人たちは口にします。

しかし、現実は…

叔母のように元気に過ごしている人は少ないのではないだろうか?

現に叔母の弟である私の父は、七十三歳(平成17年現在)で介護認定5なのだから。

 介護は、その認定の度合いに関係なく介護する側に多大な負担をかけてきます。

・気持ち(身内としての心配。と同時に身内としてだからこそ起こる怒り)

・体力(自宅にしろ、病院にしろ、そこで出くわす様々な力のいる世話)

・時間(仕事、家事、日常生活、睡眠、その時間のなかでの24時間休むことの出来ない世話)

・金銭(当然、介護には、嫌でもお金が要りようになります)

・行政(県や市町村が制度化してる福祉行政に対する問題点への気づき)

・その他にも上げればキリがないほど様々な事があります…

 『負担』『心労』

こう言うと、ほとんどの人が『我が親なんに、なんて冷たいこと言うがや!』と言われます。また、『親の介護が始まる』と話すと、ほぼ全員の人が『頑張ってお世話してあげてね』と話します。

 しかし、今、自分自身が介護をする身になって気づかせてもらったことがあります。『介護』…そこには身内の情を含んだ上で、それを上回る大変さがあるのだと。そして大変でも私がして行かねばならないことなのだと。その事実が辛くなっていくのだと。介護とは、いつまで続くか、先の見えない事態です。そのことがまた介護する人を辛くさせます。

 それ故に…

決して介護とは、世話することに『頑張り過ぎ』てはいけないのです。

 誰もが大切な身内の世話をするのです。適当にやろうなどと思っているはずなどありません。しかし、その思いが強ければ強いほど、頑張ってはいけないのです。なぜなら、頑張って、頑張って、頑張り過ぎれば、自分が壊れてしまうから…

 そして、自分が壊れたなら、その大切な人を介護する人が居なくなってしまうから…なのです。

 必要なのは『続ける』ことなのですから、私が。

 介護なのだから、無理は仕方ありません。無理しなければならないこともたくさんあります。しかし、無茶はいけないのです。どこかで、ズルをすることも必要なのです。

誰かに愚痴を言うことも必要なのです。

自分を責めず休むことも、『続ける』ためには必要なことなのです。

世話することを、投げ出したくなる自分を責めず、愚痴を言うことも、それもまた、当たり前だど受け入れて、それでも投げ出すわけにはいかない『現実』だから、ズルして休むことを許す自分が必要なのです。

本当に投げ出してしまわないために。

 こんなお話があります。

あるお宅に月参りに伺った時のことです。3ヶ月前から、実家の父親が脳梗塞で倒れ入院しているとそのお宅の奥さんが話始めました。

 実家の母親は数年前に癌で亡くなっているそうです。故に、病院でのお世話は一手にこの奥さんの手にゆだねられました。生活は一変しました。

 ひと通りの話を聞いた後、

『お父さんのことは、とりあえず入院してるんだから、病院にまかせて、奥さん、自分の体のこと大事にせんなんよ。奥さん倒れたら誰がお父さん看るん。だから、ぜったい無理せんと、ズルもせんなんよ…休まんなんよ。愚痴も誰かに言わんなんよ』と言わせもらいました。

 すると、その奥さんすかさず

『ご坊さん!誰か身内に看病してる人、おるやろ!』と聞いてくるのです。

『うん、親父がね。喉頭癌で入院してたし、糖尿からくる脳梗塞で…大変…』

そう答えると、

『やっぱりね。看病したことがある人でないと、出てこん言葉なんよ。それ。たいがい、お父さん大事にしてあげてねって言われるのよ。自分を気をつけんなんよって言ってくれる人は、みんな介護や看病の経験のある人だけや。やっぱりね。でも、そうやって言われると気が少し楽になるわ』と、言うのである。

 『経験に勝る教えなし』古き時より言われてきた言葉に嘘はなかった。どのような体験でも、それはその人の『身』、血や肉になっていく。

親鸞聖人の言葉に『本願力二、アイヌレバ、空シク過グル人ゾナキ…』と言われる意味は正にこの事であろう。

『本願力』とは、一生懸命に生きてくれという、私たちにかけられた『願い』。

『空シク過グル人ゾナキ』とは、一生懸命に生きたなら、自分の人生で出会うすべての事柄は私にとって無駄なことなど一つもないということ。

 辛くて苦しい介護も、それを背負い生きている人は、誠(まこと・心のこもった)を持った言葉を人にかけられるようになる。それも、意識せずに。その言葉をかけずにはいられなくなるのである。言葉をかけられた人も、かけられた言葉の誠(まこと)を汲み取れるようになる。頭ではなく心で…。

 先に述べたように、介護は『続けて』いかなければなりません。自分が続けていく、続けられるように、肩の力を抜いて介護に向かい会う事が必要なのではないでしょうか。

そして、その続く介護は、自分自身をきっと、人として深く魅力のある人間にしてくれるはずです。

釋 完修
合掌
[2005/03(2013/05改訂)]

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