其の二十-二
【 とぶろう・2 】
「訪う」とは、アイツが、その身を以って(命をかけて)俺たちに事故の悲惨さを教えてくれた。事故を起こせば、死んでしまえば、こんなにも親や兄弟、友達を悲しませることになると云うことを。それならば俺たちは、アイツがその身をかけて教えてくれたことを、この「心」と「身体」に刻み込んで生きていこう。今日この時より、これから一生ただの一度も、交通違反や事故をおこさないようにと、誓い合って、そして別れそれぞれの人生を生きていく。死んでしまって終りではない。死という事実が無駄ではない。亡くなった人が、生きている人間の生き方までも変えていく。この事が「訪う」と云うことなのです。
考えてみれば、私たちの娑婆での生活は「訪う」の一生ではないでしょうか。我より先に亡くなった人は、数限りなくいます。その人達から「良きも悪しきも」学び気づき訪うていく。そうすれば、もう少しちゃんとした時代になると思いませんか。飲酒運転で亡くなった人達を訪うとは、絶対に飲んだら乗らないと実践してゆくこと。戦争という愚かな行為で亡くなった人達を訪うとは、二度とどんなことがあっても戦争をしないと努力してゆくこと。すべての出来事をきちんと訪っていく責任が、「今、生きている」私たちにあるのです。
「供養」という言葉があります。広辞苑によれば「死者の霊に諸物を供え、仏事を営んで死者の成仏を祈ること」とあります。浄土真宗で、この「供養」という言葉を用いないのは、その意味が「訪う」とかけ離れているためです。死者は成仏させるものではありません。私たちを真実に導いてくれる、すでに「仏」の「心」を汲み取って生活していくことこそが、大切なのです。日々の忙しさの中で、ついつい忘れがちになる「訪いの心」を、その都度思い起こさせてくれる機会。それが毎月の月参りや年忌法要、報恩講なのです。
合掌
[2006/10]
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