其の二十
【 とぶろう・1 】
お通夜や葬儀、ご法事など仏事にお参りするとき、「弔う(とむらう)」と云う気持ちでほとんどの方がお参りしているはずです。そしてほとんどの方が「弔う」という言葉を使うとき、その心は、どうか成仏して下さい。とか、化けて出てこないで下さい。とか、もしくはどうしても化けて出てくるなら、私の所じゃなく隣のお祖父さんの所へどうぞとか…「祟る」「恨まれる」と云うことを避ける思いが少なからず込められているのではないでしょうか。
今まで一緒に暮らしてきた連れ合いを、亡くなったとたんに「怖い」と感じたり、目に入れても痛くないほど可愛がっていた我が子を、亡くなったとたん「迷うている」と感じてみたり。なぜ、亡くなった人を「妖怪」や「化け物」にしてしまうのでしょうか。それは大変失礼な事ではないでしょうか。
あるお宅にお参りに行った時の話です。「お祖父さんが亡くなって初七日やけど、なぁ~んも夢見んがや。私しゃ薄情なんかぇ~。いっぺんでも出てくりゃいいのにねぇ」。それから一週間したお参りの日。今度はこう言うのです。「なぁ~んも夢見んていうとったら、出てきてねぇ。ご坊さん。ありゃ迷うとるがかねぇ」オイオイと漫才でなくても「突っ込み」を入れたくなります。夢に出てこなければこないで文句を言うは、出てくれば出てきたで迷うていると言う。勝手なものです。
実は「弔う」と云う言葉の「こころ」が違ったとらえ方をされている事に、すべての原因があります。「弔う」とは、「訪う(とぶろう)」ことなのです。この「ごんべん」に「ほう」と書く「訪う」は「たずねる」と云う意味です。亡き人の人生から、その人の生き方から、娑婆に残った私たちが何かを学び取っていく。その事が「とぶろう」ことなのです。
分かりやすい例を一つ。ここに十人の仲のよいバイク乗りの若者がいます。彼らは、皆仕事をやりくりして、いつも一緒にバイクを楽しんでいました。ある時、そのうちの一人がバイクの事故で亡くなってしまいました。残った9人は、急ぎ通夜の席に駆けつけます。そこで彼らは、息子の死を嘆く両親や兄弟、親族・友人、縁のある人達の悲しみの姿を目の当たりにします。そして彼らもまた、親友の死に無念さを募らせます。その通夜の帰り道、彼ら九人が、お互いの顔を見合わせて、もう俺たちはバイクに乗ることを止めよう、亡くなったアイツのタメに。そう誓い合って別れていく。この事が「弔う」ことだと多くの方が思われるのではないでしょうか。しかし、「弔う」→「訪う」とは、そういう事ではナイのです。(とぶろう・2につづく)
合掌
[2006/10]
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