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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の二十二
【 おかげさま・2 】

 それは長年通っている焼肉屋のオヤジさんの事。このオヤジさん頑固で元気がよくて昔気質な人である。いつぞやも店で何が気にいらなかったのか「俺は○○TVの局長やぞ!」と威張った客がいた。オヤジさんすかさず、「ほな何か、あんた局長や言って威張るけど自分が食べたその千二百円の定食、五千円も一万円も払って帰るんか?違うやろ!わしにすれば千二百円の定食食べてくれる人はみんな千二百円のお客さんや。上も下もあるかい!俺がおごってやるから帰れ!」と帰してしまった。故にこの店…繁盛している。

 このオヤジさん口癖のように「どや腹一杯になったか…飯はタダやからオカワリ何杯でもせい」と来るお客さん一人一人に何回でも言っていた。前々から不思議だった。なんでいつもいつも「腹一杯に…」と言っているんだろうと。ある時二人だけになった時、思い切って聞いてみた。オヤジさん曰く、俺は十六で大阪の大きな肉屋にデッチにだされた。毎日大変できつかった。ある日、親戚の家で夕飯をいただいた。若いからいくらでも食べれた。でもまだ十六や。なんでオカワリ欲しいって言えるやら。だまぁ~っとった。とうとう最後まで誰も「オカワリどうや?」とか「まだ食べ」とか言ってくれんかった。真っ暗になった帰り道、電車の駅までとぼとぼ歩きながらなんや悲しいなってきた。そんとき思たんや。俺大人になったら食べ物屋しようって。そして店にくる人らに腹一杯食べてもらおうって…何の気兼ねもない。楽な店にしょって。だからついつい言うてしまうのや。刈り上げた頭を掻きながらの話しだった。そして、あの親戚での夕飯の思い。今思えばアレがなかったら今この店なかった。あの辛い惨めな気持ちがあったから今があるんかなぁ。あの「おかげさま」やなぁと。

 悲しみや苦しみ、辛い出来事。それらは私を育てるものとして決して無駄なものではなく、失敗したと云う事が私の人生に新しい意味を見出すのに必要だった。オヤジさんの「おかげさま」とはそんな意味だろう。そしてこの事が「おかげさま」と云う言葉の本当の使い方なのだろう。

 「この年になっても無病息災、お医者の手もわずらわせる事なしに達者でこれた。おかげさま」「うちの息子も娘も、出来がよくて、いい学校をださせてもろうて、いい会社に入れさせてもらっておかげさま」「気立てのよいお嫁さんが嫁いできてくれておかげさま」こんなふうに良い事ばかりを選んでおかげさまと言っていませんか?交通事故に遭ったり、癌の宣告を受けて、あと一年の寿命と言われたら、誰もおかげさまなんて言いません。おおむね良い事ばかり感謝しているおかげさまです。

 おかげさまと言う言葉は実に深い言葉なのです。中心に「かげ」と言う言葉があって、それは目に見えない、かげなる力のはたらきの事。その上に「お」の字をつけ、下に「さま」をつける。

 目に見えないかげなる力のはたらきで、あらゆる事が成り立っている。だから当然良い事ばかりとは限らない。悪いことも、目に見えない力のはたらきによって、私の上にやってくる。それは当然の事。そのはたらきによる良い事悪い事の一切を選り好みせずに、「お」と敬い「さま」とおしていただくのが、「おかげさま」と云う事なのです。

 私たちは、一切合切すべて「おかげさま」といただいているでしょうか…?

釋 完修
合掌
[2007/03]

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