其の二十八
【 お荘厳・3 】
「お骨を先に納めてくださいね…」 蝋燭・線香・お花で墓前を荘厳(飾る)しようとしている親族にそう促した。自宅での満中陰(四十九日)法要を終えて、お墓のある野田墓地まで車五台に分乗して納骨に来たときの話しである。。
「準備が出来ました…」その言葉に導かれ墓前に。読経しようと正面に立ったその時…「えっ?」…もう一回見てみよう…「えっ?」…やっぱり…なんか前にもこんなことがあったような気がする(お荘厳1参照)。後ろを向いて、親族に一言「あのお花なんですか?」そう指差した先には、花立てに後ろ向き飾られたお花があった。
その問いに、年配のご婦人がすかさず答えた。「この間テレビで、細〇数子先生が、お墓に供える花は、お墓の方に向けて供えるのが本当ですと言っていたもので…」私「え-っ!」真夏の午後1時。炎天下の墓地でめまいがしてきたのは、決して熱中症ではない。あなたは、いつからその細〇さんの弟子になったんだ!って突っ込みを入れたいのを我慢して、「みなさん。読経の前に…一言」野外授業は始まった。
確かに、お墓にお花をあげるのならこうでしょう。お祝いやお見舞い、プレゼントなどで、相手にお花を贈るのなら、確かに相手に向けてあげます。なら、なぜ本堂のお花やお仏壇、葬儀の祭壇、それらのお花は私たちの方を向いているのでしょう。細〇先生(わざと先生をつけてみた)の言葉どうりなら、それらもみんなムコウを向いてなくちゃおかしいですね。コチラを向いているのには、ちゃんと「その事」に意味があるからなんです。
仏(ほとけ)に向けてお供えしたお花は、お供えしたその瞬間に、私たちの方に返されているです。ともすれば私たちは、供物やお花を供え、さぁどうだ供養をしたぞと胸をはりがちです。しかし、そんなことを、私たちの先達(私たちより先に亡くなった命)が、望んでいるのでょうか?例えば自分の両親のお墓参りに来たとします。そこに何十万もするお花を飾り、山のような供物を供えお参りすることを、親は喜ぶでしょうか?あなたが、その親ならどうですか?そんなことより、人として道をはずれず、残った家族が力を合わせて、人生という道の真ん中を堂々と胸を張って歩んでいこうとする姿勢、その志しを願っているのではないでしょうか!その願いが私たちに向いている、呼び掛けられている、その意味でお花はコチラを向いているのです。
母の日に、我が子が贈ってくれる一本のカーネーションに涙しているお母さんをよく見かけます。でもそれは、お花がうれしいんじゃないはずです。我が子が人に「ありがとう」と言えて、人を「思いやるこころ」を持っていることに感激し、喜び、涙しているはずです。そういう子に育った!ということに…。
私たちが、仏前に立つ時、それは生きてきた自分の生き方を「見てもらう」ということなのです。そして仏の私にかけられいる「願い」を「聞く」。
故に、すべての「荘厳(お花も含めて)」は、私たちの方を、向いていなければならないのです。
お荘厳はただ飾られいるのではありせん。そこに、深い教えが込められているのです。
合掌
[2009/10]
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