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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の三十一
【 運命と宿命・2 】

 次に『宿命』。これもちょっと違う!宿命って、『やどる』『いのち』って書く。この場合の『いのち』って『そこにある状況や心情、行動や動作その他もろもろ』の事。そこに…やどっている…いのち。

 例えば、漁師になりました。朝三時に起きて魚をとりに行かねばなりません。どれだけ嫌だと思っても、それをしなければ漁師じゃない。電気屋が電気工事を嫌だって言ってたら…。坊主がお経読むの嫌だといったって…そんな事は通らない。医者が病人を診るの嫌だって言ってもね。つまり、どれだけ自分が嫌でも好きでも、その事にツイテクルこと。一番になろうと頑張ってきた。一番になりました。その時から次は追われる立場になる。これも宿命。細○数子さんのとは違うでしょ。これを真宗では『宿業』っていいます。宿命をもうひとつ深めたみかたかなぁ。というか、厳しくとらえたといった方が良いかもしれませんね。

 この業は、あるところに九六歳になるおばあさんがいました。ある時大事に大事に可愛がっていた孫が事故で亡くなってしまいました。おばあさんは棺の前で1人つぶやきます。『九六のワシが生き残っていて、お前が先に往く…。可愛いお前の葬式にでとる。ワシが代われるもんならなぁ。どんなに思うても、どうにもならん。こんなに悲しゅうても、まだワシ…生きていかなならん…業(ごう)やなあ…』これが業の言葉の「こころ」かなぁ。辛くても、悲しくても、納得いかなくても、我慢できなくても、了解できなくても、それでもすべてを『うんと堪忍』して、背負って生きて行く。それが業という事だろう。結論としては、始めから決ってることなど、ひとつもないってことです。

 何事も起こらないように、辛いことや苦しいこと、悲しいことが自分に舞い込まないようにと願いながら生きていく、消極的な人生をおくるより、何が起きても、それを背負って生きていく人生、と云うより、何でも起きるのが人生だと覚悟する積極的な人生。生きているとは、いろいろな目に逢っていくことだという現実から目をそらさずに受け入れいくことが、大切なのです。

 たった六歳の白血病になった女の子が、「お母さん、毎日病院に来なくていいよ。大変だから」と母親をいたわることができるほどの、慈愛を身につけたり、やっと見つかったドナー提供者に提供を拒否された青年が、「それならなぜ、ドナー登録したんだ!と相手を憎む私は、こころの醜い人間です」と懺悔できるほどのこころの尊さを得たのも、それは、身に起こった出来事を、運命や宿命という、あいまいな言葉で諦めたり、納得したふりをするのではなく、宿業と背負った故になせたわざだと思う。その言葉を知っている、いないにかかわらず、現実を背負いきったということにちがいない。

 私たちは、もう一度『生きる』ということをもっと『考え』なければならないと思う。

釋 完修
合掌
[2009/12]

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