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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の三十二
【 壱百八の鐘音 】

 12月31日午後11時。今年も残す所あと1時間。今年一年間のいろいろな出来事、それに伴う思いと共に、まじかに迫る新しい年への期待と不安、そんな思いが最高潮になったその時…。『ごぉ~ん!…ごぉ~ん!』とお寺の鐘、除夜の鐘が鳴りだす。

 いつも、鐘をツキながら思うのが…こうやって鐘を鳴らして、年末を盛り上げてるのは私たち(坊主)なんだけどなぁ~。「あ~っ…今年も…もう終わるねぇ~」って感じでみんなシミジミしたりなんかして。なのに、こんなに頑張って寒い中、108回も鐘をツイているのに…なぜに!みんな神社にお参りに行く!だれもお寺に来ない!まったくお参りに来る人がいないわけではないが、圧倒的に神社!するとなに?もしかして、私たちは年末を盛り上げるためだけのバックグラウンドミュージック・BGMってこと!うっ…報われない…。ちょっと悲しい年の暮れの行事『除夜の鐘』。

 この『除夜の鐘』百八つ鳴るのはみなさんご存じだろうが、なぜ百八つなのか正しい理由を知っていますか?一般的に言われているのは『百八つの煩悩を消す』(人間の煩悩が百八つある)ため。でもコレは間違いと云うか誤解していると云うか…、そもそも人間の煩悩・欲がたった百八つなわけがないと思いませんか?

 こんなお話があります。あるところに九十八歳になるお婆さんが住んでいました。「わたしゃこの歳になったら、もうなぁ~んも欲しいもんなんかのうなった。」その言葉を聞いた近所の若い衆が感心して「そりゃ大したもんじゃ。長生きしたいとも思わんのか?」と聞いてみました。するとお婆さんは「この歳まで生きたらもういつ死んでも結構や」と答えました。「そりゃますます大したもんじゃ、だてに歳をとっとらん」するとお婆ちゃんがさらにこう言いました。「そうじゃろう。欲もなぁ~んもなくなった。ただ死んだら極楽行きてぇなぁ」若い衆が唖然として一言「婆さん、それが一番欲でないかい!」どうでしょう?人間なんていくつになってもこんなもんではないでしょうか?こんな私たちの煩悩がたった百八つの訳がありません。なら、なぜ百八つなのか?

 仏教用語に『六入六根』と云う言葉があります。これが除夜の鐘の数・百八つのいわれです。

 目・耳・鼻・舌・身・意、人間にはこの六つの器官があります。これを『六根』と言います。この六根にそれぞれ外から入ってくる刺激、目には色や景色、耳には音、鼻には匂い、舌には味、身には体が感じる触、意には意識す法、これを『六入』と言います。この『六入』それぞれに『好き』『嫌い』『どちらでもない』の三通りがあります。例えば目、目に見える色や景色に対して好き、嫌い、どちらでもないと云うようにです。つまり6×3=18。

 次に、この『六根六入』の18に『こだわる』『こだわらない』の2種類があります。18×2=36。そして、この36が、『過去』『現在』『未来』の三世において存在します。故に36×3=108です。私たちの煩悩が108あると云うのではなく、すべての煩悩がこの108の中におさまっていると云うことなのです。とどのつまり私たちはこの108の中からは逃げることなど出来ないと云うことです。

 浄土真宗で云う『除夜の鐘』は、煩悩を消し去ろうとするのではなく、煩悩にまみれて過ごした今年を反省し、あるがままの自分を見つめ、来る年こそ煩悩があるが故に見えてくる正しき生き方に気づいていこうと自覚する。それを促す『鐘の音』なのです。

釋 完修
合掌
[2009/12]

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