BONZE
bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の三十三
【 因果 】

 3年ほど前に、当日23歳の男性を紹介された。

 白血病だった。どこかで私の話しを聞いたらしく、ぜひ一度話しがしてみたいとのことで知り合いに紹介された。

 その青年が会って、一番始めに言った言葉が『僕が、白血病になったのは、必然ですか?』って…『必然』ー『必ずそうなること』(広辞苑)

 はい。必然です。運命です。そんなことを言ったって、彼は納得というか、病気の事を背負っていけないと思った…。

 そのとき言ったのは…。納得いかないよね。なんで僕がっておもうよね。僕が何か悪い事したか?って思うよね。ただね、私たちが生まれてきたその時から…生まれる前(お腹に居た時の意)から…私たちはいろいろなものを背負って生(せい)を受けるの。自分が望む望まない関係なく。顔の造りひとつとってもそうでしょ。親から受け継いだものだし。その親も親から。その親もその親から。病気も頑丈な身体も…。お酒が強かったり弱かったり、癖も性格も、好みも、ありとあらゆるものを、始めから背負って生をうけて裟婆にでてくるわけ。図をかけば、一目瞭然なんだけど…、ほら、私にも貴方にも両親(父と母)がいるよね。2人。その父にも父と母がいるよね。母にも父と母がいるよね。その父と母にも父と母がいて…明日の朝まで書いてたってきりがない。ほんの10代前で親は千人をこすんだよ。その親たちの『すべて』を受け継いで、背負って生まれくるの。

 赤ちゃんを抱いて手が震えるのは、赤ちゃんがか弱くて壊れそうだからじゃないと思う。その赤ちゃんが、数限りの無いいのちを背負ってきたその重みで震えるのだと思う。

 産まれてきたあとも、そう…。いろいろな環境のなかで、いろいろなものが交わり、影響して生きて行くわけ。だから…どんな事がこの身に起きても不思議じゃない。生きてるって事はそういうことだと思う。

 俺たちは、自分の中に数えきれないほどのいろいろな種が植わってる。それが縁というさまざまな要因によって花を咲かせる。種は因、花は果(結果)そして縁とは環境や状況、自分や他人の行動、人や物事との出会い、言葉や本、世の中のあらゆること。それが因・縁・果ってこと。

 病気になったのは、決して決まってたことじゃない。でも、なったってことは決して起こり得ないこが起きたんじゃない。だから自分に起こった出来事は、都合の悪い事でも良い事でも関係なく、すべて受け入れて生きて行かなければならない…。それが『生きる』と云うことだし『生きている』と云うことだと思う…。それから3時間ほど話しをしていただろうか…。友達のこと、彼女のこと、仕事のこと、そして人生そのものについて。

 病気は、辛さや苦しみをつれてくる。 けれど、同時に感謝や優しさもつれてくる。『病気は人を哲学者にする』と言った人がいたがまさにそのとおりだと思う。「ありがとうございました」と言って帰る彼に、「ありがとう」と言うのは私の方だと思った。彼と語らった数時間で、いろいろなことを教わった。考えさせられた。「あなたと出会えて良かった。ありがとう」そう言葉を返して、彼を見送った。

釋 完修
合掌
[2010/01]

小話のご意見・ご感想はこちらまでメールしてください。


↑TOP