其の三十五
【 責任の世代 】
「あのおじちゃん!ずるい!」小さな男の子の声がした。ホームセンターで買い物をしてレジ待ちしていたときの出来事だった。
声の主はお父さんに手を引かれた4・5歳の男の子だった。声のした列(私の列の右隣)には、順番を無視して割り込もうとしている60代の男性の姿があった。男の子のお父さんがすかさず(多分わざとに違いない)大きな声で『本当だ!ずるいねっ。あんな大人になったらダメだよ』と自分の子供に話しかけた。割り込もうとしていた男性はバツが悪そうに、その列から離れていった。男の子の父親は30代ぐらいである。似たような話を、つい最近お参りに参詣したお宅でも聞いた。そのお母さん(30代)によれば…母娘でスーパーのレジに並んでいたら…さて次は私たちの番、子供が自分の好きなお菓子をレジに出そうとしたその瞬間!…『ごめんなさいね』と言って、これもまた60代ぐらいの女性が割り込んできたそうである。あまりの事に呆然としていたら。レジの若いアルバイトの女の子が『こちらのお子さんが先です!』と注意してくれたと云うのである。『ごめんなさい』の使い方違うやろ!と呆れはてた。
最近大人が変である。私も48だから、いい大人ではあるが、どうも最近の60代~70代が変である。皆が皆でないにしろ、やたらその縦横無尽さが目につく。彼らは、ほぼ口を揃えてこう言う…『今まで一生懸命働いてきたんだから(もしくは、この歳になったら)…後はのんびりと…好きなことをして…美味しいものを食べて…余生を楽しむ』のだと。
好きなことをして、余生を楽しむことは悪いことではない。けれど…『好きなこと』を『勝手気儘』ととらえ、『余生』を『余った生(いのち)』もしくは『残った人生』ととらえたなら、当然その生き方・生活の姿勢は変わってくる。そう…『縦横無尽』に。
仏教には(特に浄土真宗には)余生とか、この歳になったらとか、リタイアとか云う考え方は存在しない。それは『今を生きる』『今を生きている』という現実の上に立ったものの考え方をするからである。
臨終のその瞬間まで私たちは、生きると云うことに『現役』である。たとえ…意識をなくし、もの言わぬ姿となって病院のベッドに横たわっていてもである。私の父親は、俗に言う植物人間になって今年で8年目になる。けれど父は今も現役の僧侶として私に説教し続けている。介護の悩み・医療の矛盾・家族の在り方・生きると云うこと・死ぬと云うこと。もの言わぬ父が、だれよりも私に教えてくれる。
人は生きているかぎり現役である。そして社会とつながっている。60歳になっても、70歳になっても、80になろうが100になろうが、その歳にならねばわからないこと、そして、その歳にならねば伝えられないことが絶対にある。いや、伝えていかねばならない責任があると思う。世捨て人のように社会から自分を切り離して…10年後20年後は生きてないから関係ない!そんな考え方は、『生まれ…そして…死んでいく』と云う自分の人生を軽んじているように思えてならない。私たちは、今を生きている。しかし、決して今だけを生きているのではない。遠い過去より受け継がれた全ての上に今を生きている。そして、受け継がれた全てを、受け渡していくことが今を生きている私たちの仕事である。自分の子や孫の世代が、『笑顔』でいられる社会にするために、たとえ微力でも手を貸して生きていることが大事なのではないだれうか。
その仕事を、積極的に行なっていける世代が60歳からの世代である。培ってきた知識と経験、前の世代から受け継いだしきたりや習慣、技術や知恵。それら全てを伝えてる責任がある。それが自分の臨終までにしておかねばならない仕事だと思う。それが、自分が生きてきた『証(あかし)』になるのだから!
故に、『縦横無尽な世捨て人』になっている暇などないのではないだろうか!
合掌
[2010/02]
小話のご意見・ご感想はこちらまでメールしてください。