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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の四十七
【 続・愛…深き故に… 】

 何十年か前のことですが、金さん銀さんという百七歳まで生きた双子のお婆ちゃんがいました。ワイドショーは、とりもなおさずこの2人をもてはやします。『おめでとう長生き!よかったね長生き!すばらしいね長生き!』賛辞やお祝いの言葉がレポーターから山のようになげかけられます。当時このレポーターたちの『言葉』に違和感を感じずにはいられませんでした。確かに元気で長生きは喜ばしい素晴らしいことです。しかし、考えてみてください。百歳を越えて生きていると云うことは、自分の両親はおくっています。叔父さんや叔母さんも。自分の兄弟や友達もおくっています。そして自分の子供たちも。ともすれば…孫さえおくっているかもしれません。

 その人に向かって…良かった良かったでいいのでしょうか?

 耐え難い悲しみを背負った人に向かって。長寿を否定するつもりはありません。ただ、二人に投げ掛けられる言葉が賛辞だけと云うことに違和感を感じるのです。掛ける言葉があるのなら…それは慈愛と敬いをもった『ごくろうさま』という言葉でなければならないはずです。

 今から何千年も前に、お釈迦さんは人生は苦(四苦八苦)だと説きました。この苦の中に愛別離苦と云う苦があります。愛する人と別れていかなければならない苦しみと云う意味です。どんなに愛しい人でも、どれだけ大事な人でも、かならず死と云う別れが訪れます。どれだけ拒んでも、拒絶しても…。『生きる』と云うことは…ある意味、愛する人、大切な人と別れて行くと云うことに他なりません。ならば…悲しみにくれ、苦しみに落ち、絶望の中で人生を終えて行くことが生きていくと云うことでしょうか?そうならば…生きていると云うこと、死んで行くと云うことが、なんの意味もないものになってしまいます。

 『生きる』と云うことは『いのちのバトンタッチ』だと言った人がいます。この『いのち』は生命という意味だけではありません。亡くなっていった人の志、信念、技術、言葉、知恵あらゆるものをさします。私たちは、そのバトンをしっかりと受け取らなければならないのではないでしょうか。実はそのことが『生きる』と云うことの本質だと!

 愛する人との別れは、言葉にすることなど出来ないほどの、辛く哀しい出来事です。でも、それが辛く哀しい出来事であればあるほど、残った者はしっかりとそのバトンを受け取ってゆかねばならないのだと思うのです。しっかりと受け取って初めて、私たちは亡くなった人を訪う(小話・とぶろう・1とぶろう・2参照)ことになるのだと。

 受け取ったバトンは、過去をも変えれる不思議なバトンです。未来は変えれます。でも過去は変えれないと私たちは思っています。辛く苦しい過去は変えれないと!けれど…このバトンは、辛く苦しい過去をそれだけではなく、意味あるものに変えてくれます。意味あるものに変われば…今の私の生き方が、思いが変わってくるはずです。

 愛別離苦と云う苦の教えは…辛く哀しい出来事を、しっかりと受け入れ、裟婆に残った者たちが、しっかりと歩いていくための教えだと思うのです。

釋 完修
合掌
[2010/08]

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