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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の四十九
【 ホットドックの缶詰 】

 『まだ右目は見えるじゃないですか!その事を喜んでみたらどうですか…右の目はちゃんと見えるのだから…ありがたいじゃないですか!』友人のメガネ屋が店に来た年配の男性に投げ掛けた言葉です。

 詳細はこうです…年配の男性は眼鏡を作りに来ました。男性の左目はもうほとんど視力が失われた状態でした。けれどもどうしても両目で物を見たかった。確かに片方の目だけでは、見たり書いたり、歩いたりするには不便です。おまけにこれはかなり疲れます。大げさに思われるかもしれませんが…肩凝り、集中力の低下、果ては不眠から頭痛までをも引き起こします。実はちゃんと『みる』『みえる』と云うことは、これほど重大なことなのです。

 友人はその事を十二分に知っているので、持てる知識と技術の全てを駆使して男性の視力を出そうとしました。レンズの屈折率を変えてみたり、レンズを合わせてみたり、あらゆる方法で…。でも視力を出すことは出来ませんでした。苦渋の選択でその男性に告げることになります。『メガネで視力を出すことは無理です』と…。

 男性の落胆は相当なものでした。それはある意味当然の事です。ただ驚いたことに、その年配の男性に付き添って来た息子夫婦の落胆の大きさにびっくりしたそうです。話を聞いてみると…365日24時間、起きてる時は毎日毎日『何で見えん!何で見えん!』『ひどい、ひどい』と口を開けば愚痴っているそうなのです。さすがに自分の親でも嫌になり酷くなってきたと息子さんは告白しました。実の親でもそうなのだから、お嫁さんにしてみればもっとなのは言うまでもありません。確かに、顔を合わせるたび、口を開けば愚痴られたのでは、それも四六時中ならば、たまったものではありません。それ故の落胆でした。それらを踏まえた上での『右の目はまだ見えるじゃないですか!』の友人の言葉でした。

 その言葉に即座に反応したのは、こともあろうに付き添ってきた息子さん夫婦の方だったそうです。『そんな考え方があったのか!そうですよねっ!ありがたいですよね!』と…。

 この家族は変わっていくと思います。すぐではないにしろ1年2年かかって、多分男性の愚痴はなくならないにしても、その回数や愚痴り方は変わってくるはずです。なぜなら、愚痴るたびにその愚痴られる側の考え方が変わっているのですから。今までなら…『なんでや!見えん、見えん』と言う愚痴を『どうにもならんわい!言ったってしかたないやろっ!』と文句・愚痴と捉えていたのが、今度からは愚痴られるたびに『そんなこと言わんと、まだ右目見えるがいねっ。喜ばなっ』と言ってあげれるはずですから。

 人の欲求にはキリがありません。もっともっと…今の場合ならば…視力がでれば出たで、もう少し良く見えるようになりたい、次はしっかり見えるようになりたい、そしてそのつぎはハッキリ見えるようになりたいと次から次に、その欲求は際限なく続きそのたびに『なんで見えん、なんで見えん』と愚痴る日々が、これも際限なく続いて行きます。外へ外へと限りなく広がって行く欲求!私たちの浄土真宗では、この欲求を、外へではなく、内へ向けていこうと云う教えです。そのことを分かりやすく具体的に説明する謎かけと云うかクイズと云うかこんなお話があります。

 ここにホットドッグの缶詰が1缶あります。10個のホットドッグが作れるように材料が入っている缶詰です。当然中にはパンとソーセージが入っています。

 缶詰を開けると中から10個のパンと9本のソーセージが出てきました。10個入りのホットドッグの缶詰です。さて…あなたは…これをどう考えますか?というのがその謎掛けです。では、再度問います。みなさんは、これをどう考えますか?

 答えはこうです…

 これを『10個食べれないじゃないか!!』と捉えるか…『9個食べれるじゃないか!!』と捉えるか…と云うことなのです。つまり今ある現状に不平不満をいう前に、まず今置かれている現状をしっかりと見据え、背負い、受け入れてからですよと!でなければ、いつまでたっても『こころ』の『満足』など永遠に得られませんよ!と云うことなのです。不平不満を言うなと云うことではありません。人間ですから。どんな人でも出てきます。けれど、とりあえず『今』を喜べない人に、その先の未来など『喜べ』などしないのです。なぜなら、人の欲求に限りはないからです。故に今の喜びの積み重ねだけが、先の喜びへと続く唯一の道なのです。そのことを、この謎掛けは私たちに教えてくれています。

 83歳になるお婆ちゃんが二人。両方とも膝が悪く痛くて歩くのもままならない二人です。一人のお婆ちゃんは『なんでこんなに痛いんや!若いときは痛くなかったんに!なんで治らんのや!前までは直ぐ治たんに!』と毎日口にして生活をしています。もう一人のお婆ちゃんは『83年も使こうてきた足じゃもん。痛とうなってあたりまえじゃ。わしゃまだ生きとるけん、もうちよっ頑張ってくれなっ』と痛い膝を擦って毎日生活しています。二人とも病院に通っています。何ヵ月後には痛い膝は治っているかもしれません。治っていないかもしれません。けれど膝の治るその時までの二人のお婆ちゃんの『思い』はどうでしょうか?どちらが毎日を心静かに笑って過ごしていけるのでしょうか?答えは簡単だと思います。

 今を…自分に起きている全てを…誇張もせず、過小もせず、有りのままに、まず受け入れる!そのことなしに、実は何も始まりはしないし、そのことがなければ『しあわせ』『満足』『こころの安心』などいつまでたっても得ることなどできはしないと云うことなのです。

釋 完修
合掌
[2010/10]

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