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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の五十二
【 迷走するお盆 】

 『今年のお盆はいつですか?』『えっと…今年は10・11の土日じゃなかったっけ』『確か15日を中心にして、その前後の土日だよ』『ふ~ん、でもいったい誰がお盆の日を決めてるんだろう』『知らない、どっかの偉い人じゃないか』

 インターネット上にある『掲示板』と呼ばれる何か質問を書き込めば日本全国いや世界中から答えが返ってくる便利な質問箱の中の会話である。会話の主たちの年齢は20代後半だろうか。

 偶然『お盆』について検索していたら行きついた。

おい!おい!勘弁してくれよ!

f(・・;)

思わずパソコンの画面に突っ込みを入れてしまった。地方によって7月の新盆、8月の旧盆の違いはあれ、13日の夕方から16日の昼までと決まってるんだから。その年々で変わるものではない。(そのいわれを書きだすと長くなるので、それはまた別の機会にするとして)これが今の若者たちの認識なのだろうか?会社のお盆休みとごっちゃになってる気もしないではないのだが…。

 そう言えば、私は行ったことはないが、『左義長』も似たようなことになっている。今年の左義長は何日の日曜日ですと貼り紙なんかがしてあったりして…。これにしてもおかしな話で、左義長は1月の15日に決まっていたはずである。なぜなら、1月15日までを『松の内』といって正月飾りをしている期間である。故に15日の昼頃から、その正月飾りを普段飾りに戻し、松飾りなどを左義長で燃やすのだから。その年によって変わるものではないはずである。変わればその意味がなくなってしまうから。お盆にしても左義長にしても、記念日祝日にしても、祭りにしても、ちゃんと意味・理由があって期間ないし、日が決められていたはずである。様々な理屈をつけて、何でもかんでも土日に行えばいいというものではないはずである。

 例えば結婚記念日。挙式した日でも、婚姻届を役所に提出した日でもかまわない…その日が7月の3日だとしよう。そしてその時間が午前11時だとする。その同日同時刻に夫婦二人でその記念日を祝う……

想像してみてください…

 例えば10年経っていたとしても、あぁ~今日この時間だったんだと時間と空間を飛び越えて、なんとも不思議で感慨深く当時にタイムスリップする自分、ないしは二人がいると思いませんか?

 そしてそのことが、二人をまた新たに結び着けて行くとは思いませんか?

 それは楽しいことだけに起こることではありません。

 辛く悲しい事故や災害でもそうです。同日同時刻に式典などで黙祷するのは伊達ではありません。前述したように、その日にタイムスリップするためなのです。遠く記憶の彼方に行ってしまった出来事を、再び今の出来事として受けとめ、そこから同じ事故や災害で再び悲しいことが起こらないように、シッカリといろいろな事を行って行かねばならないと決意するためなのです。

 これは同日同時刻という状況が導いてくれるのだと思います。これが日は変えるべきでないというその理由です。けれど、すべてが同日同時刻に行えるわけではないのも現実です。やむなく変えなければならないこともあるでしょう。だからこそ、生きている者のかってな都合だけで変えてはいけないのです。時間がないとか、忙しいとか、人が集まらないとか、時にはそんな時代じゃないと時代のせいにしたりして…もっともらしい勝手な理屈で変えてはいけないのです。

 余談ですが、もっともらしい勝手な理屈と云えば…東京に住むある年配のご婦人が『私は8月のお盆にはお里(金沢)のお墓参りには行かないことにしているのよ。なぜかって?だって混むじゃない。時期を外した方が空いてて快適よ。合理的でしょ』と自慢気におっしゃっているのを聞いたことがあります。いかにこの言い分が的を外れているか簡単に分かるはずです。合理的どころか、合理的にして善いものと悪いものの区別もつかず、もともとの意味・理由を蔑ろにして、自分が楽をしたいというだけの自分の都合に合わせただけの勝手な理屈・理由だと云うことが。

 話を元に戻します…

 故に日が変えられ意味を失った習慣や記念日や祭りは、単なるイベントと化していきます。単なるイベントと化したその行事は、今度はその行事を行いこなすことだけが目的となって行きます。それでは何のための行事なのか、本末転倒もいいところです。大切なのは前にも書い通り、行事を行いこなすことではないはずです。行事を通して、その行事の始まりの意味をしり、行いこなすことで、自らの『体』や『心』に先人達の想いや願いを刻むのが目的のはずです。

 私たちはその事を決して忘れてはいけないのです。

 私たち僧侶が日常執り行っている法務…月参り、年忌法要、通夜葬儀、永代経や報恩講。それらもすべて実はこの先人たちの思いや願いを受けとめ、そして次の世代に伝えて行く…そのことを教え伝えてるために行っているのです。

『前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き…

後(のち)に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)い

連続無窮(むぐう)にして

願わくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す』

と古語に言われるように、

生まれ受け継ぎ伝え死す…

受け継ぎ生まれ伝え死す。

その無限に連なる命の連続を止めないことが私たちの『生きる』

と云うことなのです。

 しかし…

 ここに大きな問題があります。モンスターペアレント、モンスター患者、モンスター〇〇と…『モンスター』と云う形容詞がつく人種の人たち。もしくは、そんな時代じゃないと時代のせいにする人種の人たちのせいで…この大切に伝えていかなければならない『命のバトン』が伝わらずに、または伝えられずに消えていこうとしています。と同時にキチンと受け継ぎ伝えられていないことが彼らを産み出しているとも云えます。

 五十、六十、七十、八十、九十……歳を重ねるほどに、私たちはさまざまな事柄を、受け継ぎ伝えていかなければならない責任があると思います。それがたとえおっくうで面倒で邪魔くさいと思うことでも…

 私も含めて五十歳以上の人間にとって、今一番欠けているものは、この受け継ぎ伝えていくと云う意識、使命感、自覚です。

 今一度かんがえてみください。私たちは今を生きています。けれどもポツンと単独で今を生きているわけではありません。連続して積み重なった過去の上に今を生きているのです。そしてその今の積み重ねが未来へと繋がっていきます。

 一人一人の力などちっぽけだと思わないでください。名前など歴史に残さない私たち一人一人が世の中を作っているのですから。

 一人一人が、キチンと命のバトンタッチをすれば、必ず世の中は今よりより良きものになっていきます。必ず!

 先ず…自分の子供さん、お孫さんから始めてみてください。 その一歩が世界を変えていきますから。

釋 完修
合掌
[2011/06]

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