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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の五十三
【 娑婆に咲く花 】

 今、世の中は政治を含め、経済、教育、医療、福祉…さまざまな事が乱れに乱れ、何でもアリになっています。人の心も結果至上主義、金銭主義、共に良くなろうとするのではなく、自分だけが良ければ良いという…。

 身近にこんなお話しがあります。

 ある五十代の男性のお宅に月参りに伺っています。ミゾレの降る11月のある夜、七十半ばのその男性の母親が交通事故で命をおとしてしまいました。葬儀も終わり四十九日も間近になったある日、話したいことがあるとその男性に電話で呼ばれました。訪ねて行くと、目を真っ赤に腫らしたその男性が迎えてくれました。『なさけない!なぜ分かってくれんのやろ!』男性の嘆きと怒りは自分の兄弟…弟と妹に向けられていました。

 母親の生命保険のお金がおりてきた。男性は話し始めました。300万円ほどの金額だった。交通事故という不慮のことなので、母親の命がお金になったような気がして受けとる気にならなかった。いろいろ悩んだ末に、このお金で仏壇とお墓を新しく綺麗にしようと考えついた。これは良いことを思いついたと、早々、弟と妹に話したところ、びっくりする言葉が返ってきた。

『兄ちゃんお金一人でガメル(盗る)のか!!』と。

言葉も出ず妹の方を見ると今度は妹が

『ちゃんとお金、分けて欲しい!』

どれだけ説明やお願いをしても、仏壇とお墓を新しくすることに賛成してくれなかったと云う話であった。

 おのおのにいろいろと訳があるのだろけれど…やりきれない気持ちになってしまいます。

 似たような話は世の中に山のように転がっているでしょう。これだけでなく、詐欺まがいの事や、まがいどころか完全な詐欺など、社会的弱者に向けて容赦なく襲いかかってくるのが今の世の中だと言っても大袈裟ではないと思います。現に現在進行形の被災地(東日本大震災)でさえ、騙しや盗み、理不尽な差別などが行われているのですから…。

 私も含めて…一度ぐらいこんな世の中なら、いっそ壊れて無くなってしまえと思ったことがあるはずです。しかし…世の中が乱れれば乱れるぼど…嫌になればなるほど、聞いていかねばならない仏教(浄土真宗)の教えがあります。『蓮の花の教え』です。

 蓮華の花(蓮)は仏を代表する花とされています。みなさんもご存知の通り、山葵(ワサビ)は清流、綺麗な清んだ水でなければ育ちません。それに反して蓮は泥の中でなければ育ちません。その泥の中でなければ花を咲かせないと云うのがその理由です。

 では、それはどういうことなのでしょうか?

 実は泥を娑ば世界(私たちの生きている世界)に例えています。争い、憎み、反目し、怒り、裏切り、疎み…それなのに愛し、慈しみ、助け合い、信じる。その混沌とした人の世を泥に例えているのです。その泥の中からでなければ蓮の真っ白い綺麗な花は咲かないと…根、茎、蕾、花と一直線に真っ白い花を咲かす。私たちはこの混沌とした世界に生きているからこそ、ただ一つ!失ってはいけない心、変えてはいけない事、大切にしなければならない心に気づいていくことができるという教えなのです。

 綺麗な場所にいるから気づくのではなく、汚いところにいるからこそ、嫌でも気づいていく…いや気づかされていく!!この一見矛盾するような考え方こそが、仏が私たちに願っている思いなのです。混沌とした時代に産まれて来たこと、そして殺伐とした時代を生きていること。いろいろなことを時代のせいにしたり、世の中のせいにしたりして、なげやりに、利己的に、損得勘定だけで生きて行くのではなく、混沌とした、殺伐とした時代に生きているからこそ、人としてきちんと生きていくことができるのだという教えなのです。

 前述した話の中に身を置く人達も、この話を他人の話しとして聞いた人達も、その中身が泥々なら泥々なほど『蓮の白い花』がより鮮明に見えてくるはずなのです。

人間として

『何が大切で、何を重んじるのか』を。

 ただそれには、まず自分が泥の中に住んでいるという自覚が必要ではあるが…。

釋 完修
合掌
[2011/07]

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