其の五十七
【 霊柩車の道順 】
どの町でも、その町内に葬儀場が建つのをいみ嫌う。そんなものが来てもらっては困ると…。葬儀場でさえ嫌われるのだから、町内に斎場、つまり火葬場など建つことになろうものならとんでもない話で、大騒ぎになる。理由は様々に言われるが、とどのつまりは縁起悪いと云う一点になるのが本音のところだろう。その縁起が悪いが高じるとどうなるのか…。火葬場が建っているある町内では、火葬場に向かう霊柩車に町内を通るな!と言い出す始末である。ほんの何十年か前まで葬儀は自宅で執り行われていた。自宅から霊柩車は出発する。当然町内を通ることになる。『ウツシ』と言われる葬儀を自宅とは異なる場所で執り行った場合(お寺や公民館)でも、ウツシの場所から火葬場に向かう途中で、わざわざ自宅の前を通ったものである。これも当然町内を通ることになる。誰も通るなと言い出す人などいなかった。当たり前である。なぜなら自分の家もいつかは葬儀を出さなければならないのだから。前述の通るな!と言う人は、自分たちの家族から葬儀は出ないと思っているのだろうか。だれも亡くなったりしないと…。そんなことなどあるはずはないのに。
その昔…そんな何百年も前の話ではなく、ほんの数十年前まで…町で霊柩車に出くわした時どうしていただろう。年配の人からどう教わっただろう。(あっ!親指を隠すって教わったと言わないでくださいね)手を合わせてお参りしなさいと教わらなかっただろうか。そう…みんな霊柩車に出くわしたら、どこの誰かは知らないけれど、今、人生の仕事を終えたんだなぁ、ご苦労様と合掌して見送っていたはずである。人間の死に対する敬愛と慈しみと、葬儀を出す家族の悲しみを想いやる優しい心は、いったいどこへいってしまったのだろう。
『村八分』と云う言葉があります。あまり好きな言葉ではありませんが…。
その昔、村社会では、その社会生活自体がほぼ共同作業でした。田植えや稲刈り。水の番や水路の補修。雪かきや草刈り等々。その共同作業を無視したり、犯罪を行ったりした人をこう呼んで、その罰として一切の付き合いをしないことを村八分と呼びました。
でも…不思議に思われませんか? ムラハチブ…ムラゼンブではないのです。十分ではなく八分なのです。つまり二分あまらせてある。一切の付き合いをしない罰なのに『二分』避けてある。つまり二分は付き合いをしましょうと云うことなのです。
その『二分』はなんだと思われますか?
その『二分』は『火事』と『葬式』の二つです。
火事は全てのものを無くしてしまいます。だから手をさしのべて助けましょう。そして葬式は、どの家にも必ず起こることだから、手伝いましょうと云うことなのです。結婚をしない人はいても、死なない人は居ない。故に『村十分』ではなくて『村八分』なのです。
ここに二分だけ、人としての心は残してあります。最低限の優しさと想いやりは残してあるのです。
人の死と出くわす事が、そんなに不吉でいみ嫌わなければならないことでしょうか?
私たちは、日常の中で、その忙しさに翻弄され、『生きている』その事さえ忘れて生活しています。その私たちに…『生まれ死んでいく』そのどうにもならない現実を教えてくれる『人の死』を、もっと尊ばなければならないのではないでしょうか。
そしてそこから、『生きる』と云うことをもっと『考え』ていかなければならないと思うのです。
村十分:冠、婚、葬、追善、出産、建築、旅行、火事、水害、病気の交際十種。
合掌
[2011/12]
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