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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の六十一
【 しがらみ 】

 『こんな薄い字で名前書いて来ても読めんがいや。ダラぁんねいか!』

『そやそや』

お通夜のお香典受付係の人たちの声がした。

知らないとは恐ろしいもので、キチンと正式に礼を尽くして来ても受ける側が知らないとこうなるらしい。香典は『薄墨』で書いてくるのが礼儀である。なぜなら、今でこそポールペンやマジック等があるが、その昔は全て筆である。当然筆を使うには墨をすらなくてはならない。今自分にとって大事な人の死をしって、急ぎ駆けつけなければならないときに、悠長に墨などすっている暇などない。急ぎ墨をすり香典を包み馳せ参じる。故に字は薄くなる。そこから仏事に関する表書き、特にお香典はわざわざ字を薄く書くのである。

 知らない云うことは決して恥ではない。知らなければ聞けば良いのである。全ての事を知っている人などいないのだから。しかし、その年代年代において、知っておかねばならない事を知らないと云うことは、ある意味罪だと思う。

 20代、30代、40代、50、60、70、80、90…と、その年代年代において、人は様々な出来事に出会う。特殊な出来事をあえて求めなくても、ごく一般的な生活を送っているだけで十分にいろいろな出来事に出会える。そのひとつひとつが経験と云う知恵になって自分の中に蓄積されていく。その蓄積がある意味その人を形作って行くと言ってもいいと思う。

 20代にしか出来ないことがある。40代で気づくことがある。60代でなければわからないことや、80代でなければ見えてこない世界もあるだろう。歳を重ねるたびに、人は何物にも代えがたい『経験』と云う宝物を得ていく。それが俗に言われる、年長者が『人生の先輩』と言われる由縁である。ただし、出会った出来事に、ちゃんと向かい会い、悩み、考え、学び、そしてそれらを積み重ね…経験として蓄積しているかどうかによるが…

 ある時代まで、様々な近所付き合いや、親族・友人の付き合いがあった。昭和の半ばからから後半、そしと平成へと時代が移り変わるごとに、様々な付き合いや交流を、『しがらみ』と言って人々は嫌い排除してきた。それを良しとしてきた社会があった。楽だし、煩わしくないし、相手もその方が気楽でよろこぶから…そんな理由をつけて。

 ご存知だろうか?『しがらみ』の語源を…。

シガラミとは、田に用水から水を引く時に、稲の成長の邪魔にならなぬように、木の枝や木の葉、ツルや小石やゴミなどがまぎれ込むのを防ぐ『柵(さく)』の事である。柵と書いてシガラミと読む。その柵にいろいろなものが引っ掛かる。そこから転じて、娑婆のいろいろな付き合いの事をシガラミと呼んだのである。

 『しがらみ』それは稲がきちんと成長していくためには必要不可欠なものなのである。

 私たちは、長い年月をかけて、このシガラミ、心にかかるシガラミを取りのぞいてきました。結果…田のなかに稲の成長を妨げるものが入ってくるかのように…人の心の中に、人の成長を妨げる様々なものが入ってきたと言えるのではないでしょうか。いや入ってきたと言うより、シガラミを取りのぞいたおかげで、なにも引っ掛からなくなったと言った方が良いかもしれません。柵がないから引っ掛からない。引っ掛からないから蓄積しない。ただだらだらと流れこむだけ…。

 私たちは、人が成長していくために必要不可欠な『柵』 を壊してしまいました。故に知っておかねばならないことも、知らない私になってしまっています。

 現代社会にシガラミがないのなら、私たちは、会う様々な出来事に意識して出会わなければなりません。

そこからいろいろなことを知り蓄積していこうと。出会うすべての事に真っ正面から向かい会い、悩み、考え、学び、そして知っていく。そうしなければ、ただやみくもに歳だけを重ていく虚しい人生になってしまうのではないでしょうか?どうせ歳をとるなら、何でも知っている『近所の物知りオジサン・オバサン…じいちゃん・ばあちゃん』と呼ばれてみませんか…。

 今回の小話の最後に、私たち僧侶がその資格を取るために本山で行われる『修練』と呼ばれる、言うなれば教育実習での出来事を記しておこうと思います。

 机の上には一本のバナナが置いてありました。

静かに教導と呼ばれる先生が私達に問いかけました。

『このバナナを見て…泣けますか?』

30人いる私たちの反応はさまざまでした。キョトンとする者、考え出す者、びっくりする者、バカらしいと怒り出す者、はては笑い出す者までいました。ひと通り私たちの反応を見終わった後、先生はまた静かに話始めました。

『このバナナを誰が収穫しているか知っていますか?10歳前後の子供たちが収穫しているのですよ。学校にも行かず。いえ、行けずに。貧困に悩むこの国(バナナの原産国)では、そんな年齢の子供たちも働かなくては生活できないのです。

そして…その子供たちの何人かは、バナナの木の下で死んでいるのです。餓死して…。

そのバナナを食べればいいじゃないか!!

そう思うでしょ?

でも、そのバナナを食べる訳にはいかないのです。

その国は日本からたくさんのお金を借りています。

そのお金を返すために、バナナを日本に輸出しているのです。だから…子供たちはどんなにお腹が空いても、そのバナナを口に入れるわけにはいかないのです。

そうやって収穫されたのが今、目の前にある一本のバナナです』

『もう一度聞きます。このバナナ見て泣けますか?』

もう誰も、怒り出す者も笑う者もいませんでした。ただ言葉も出ず、黙っているだけでした…。

しばらく間を置いて、先生が再び話始めました。

泣けないことを責めるのではないのです。怒るのも、笑うのも責めるつもりもありません。

ただ…知って置いて欲しいのです。

『知らないということは…こんなことなのですよ』と云うことを…

釋 完修
合掌
[2012/02]

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