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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の六十二
【 布施のこころ 】

 ミゾレ降る午後…

靴の直しを取りにある巨大ショッピングセンターに行った。ここの一階、入り口近くにある小さなお直し店。かなり年配の親父さんが一人でやっているのだが、なかなか腕がいい。おまけに少々無理な直しでも何とかしてくれる。ありがたいお店である。

 小走りで入り口に急いだ。入り口近くに、車椅子の年配の男性とそれを押す年配の女性を見かけた。夫婦のようだった。あいにくのミゾレ混じりの天気。車椅子は思うように進まない様子だった。おまけに買い出しなのだろうか、手にはたくさんの買い物がぶら下がっていた。

『大丈夫ですか?押しましょうか?』

 そう言ってこのご夫婦の車のある場所まで車椅子を押すことにした。夫婦の車は、そのショッピングセンターの入り口から最も遠い場所にあった。ありがとうございます。どういたしまして。お互いに挨拶を交わし、再び靴を取りに入り口に急いだ。

 このショッピングセンターの入り口近くには、車椅子のマークの付いた駐車スペースが四台分とってある。四つ全てうまっていた。大型のワンボックスタイプが二台、軽自動車と乗用車がそれぞれ一台づつ。

 そのワンボックスに元気な足取りで乗り込むおじさんがいた。軽自動車には、手に荷物をいっぱいに持った、これもまた元気な足取りで、元気におゃべりをしながらおばさん二人が乗り込むところだった。

 怒るより悲しくなった。車椅子の老夫婦が一番遠い所に…元気な足取りのおじさんおばさんが一番近い所に駐車している。

そんなに…歩くことが嫌なのだろうか?

そんなに近くに止めたいのだろうか?

 ほんの少し元気な自分を誇ってみませんか…

ほんの少し自分の元気な身体に感謝してみませんか…雨や雪、アラレやミゾレの日に、片手で傘をさし荷物をもって遠くまで歩ける自分を!!

 身体のどの部分が痛くても、目や耳、身体のどの器官が不自由でも…遠くまで歩くことは困難なことなのですから。本当は、遠くまで歩ける自分に涙がでるほど、ありがたがらねばならないと思うのです。荷物を持つ手がある。不自由なく歩ける足がある。

なのに…

 それを使いもせず本当に歩くことが困難な人や、車椅子を使っている人のために用意してある駐車スペースに車を止めることは、それはある意味、自分自身に対して失礼にあたるのではないでしょうか。歩ける自分自身を大事に、大切にしていないことのように思うのです。

 大多数の人は、車椅子のマークの付いている駐車スペースに車を止めたりはしません。そこに車を止めてはいけないことになっているから。そこは身体の不自由な人のための場所だから。でも、身体が不自由でなくても止める人もあとをたちません。

 その場所に、車を止めない人も止める人も、考えたことがあるでしょうか?その駐車スペースは、いつ自分自身が使うようになるかもしれない、必要になるかもしれないスペースだと…。

『あそこは、身体の不自由な人の場所だから!止めちゃいけない!』

『俺は私は元気だから止めちゃいけない』

そう思っていませんか?(もちろん車を止める人はそんなことを思っていないのでしょうが…)

 でも、私たちは…

いつ交通事故にあって下半身不随になるかもしれません。交通事故に合わなくても、階段から落ちて、手や足、腰などに重大な損傷を受けるかもしれません。スポーツなどをしていればなおさらです。野球やゴルフ、バスケット、バレー等々いつボールが頭や顔、耳や目に当たって聴こえなくなったり、見えなくなったりするかもしれません。一瞬の出来事で、私たちは、いつでも身体が不自由になる可能性を持って生活しているのです。

事故にあわなくても…

私たちは、一生、死ぬまで、目も足も、耳も手も、身体のどの部分も不自由無くいられるはずなどないはずです。必ず不自由になっていくのです。なぜなら、人は老いるのだから…。

 『健常者』と言う言葉があります。『障害者』と言う言葉があります。ほとんどの人が『健常者』の反対語が『障害者』だと思っているのではないでしょうか。この2つの言葉は対語なのだと…。

 健常者と障害者。それは対語などではありません。むしろ障害者と言う言葉の中に健常者と言う言葉が含まれるのといった方がよいでしょう。

えっ!と思われると思います。

何いってるの!と思われるでしょう。

しかし、この2つの言葉を英訳するとその訳がわかります。

【健常者】

英訳すると

『Physically unimpaired person』

英訳を直訳すると…肉体的に、身体的に損なわれていない人間

【障害者】

英訳すると

『Handicapped person』

英訳を直訳すると…不利な条件な人間

…いかがでしょうか。

 健常者とは…。たまたま今現在、肉体的身体的に損なわれていない人と言えます。たまたまなのです。いつ私たちは、不利な条件を持つ人(障害者)になるかもしれないと云うことです。英訳の単語がそれを如実に表しています。身体の不自由な人、それは実は『ある日の私自身』なのです。

 仏教には『布施』というものの考え方があります。布施と言うとすぐに僧侶にわたす金銭のことだけを思い浮かべがちですが、実は違うのです。『布施』の語源はパーリ語の『ダーナ』にあります。ダーナとは『与える』と云う意味です。人に何かを与えること、何かをしてあげることすべてがダーナ(布施)なのです。

・知恵のある人が、その知恵を授けたり、人のために使うのも布施です(友達に数学を教えてあげるのも布施)。

・力のある人がその力を使ってあげれば布施です(引っ越しを手伝ったり、水害の瓦礫を撤去に行く)。

・時間をさいて、その時間で何かをするのも布施です(友人の悩みを聞いたり、アドバイスをしたり)。

・施設に寄付したり、義援金をだしたり、奨学金を出したりすのも布施です。

知恵や力や時間やお金。それらがなければ、ただ縁ある人に(親や兄弟や友人、夫、妻等々)優しく笑いかけてあげる。これだけでもりっぱな布施なのです。

 この『布施』を行うときの心がまえが前述した『ある日の自分』と云う思いなのです。

 思いやりを持て。優しくあれ。とはよく言われることです。相手の身になって考えろと…。しかし、なかなか出来ることではありません。けれど、そこにいるのが『ある日の私』ならばどうでしよう。容易に何をすればよいのか、何をしたらいけないのかがわかるのではないでしょうか。

 子供ころ『親切』と言う言葉を教えられませんでしたか?『自分がしてもらって嬉しいことは進んでしなさい。けれど自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない。それを踏まえたうえで、人に優しくするのが親切なんだよ』と、繰り返し教わった覚えがあります。

 この『親切』とは『布施』のことです。私たちはすでに、子供の頃に、この娑婆の世で生きていく大切な生き方を学んでいるのです。なのに、せっかく学んだ大切な生き方を大人の私たちは忘れて生きています。

思い出してみませんか?子供のころに言われた言葉を…親切と云う言葉で教わった『布施のこころ』を。

 思い出した『布施のこころ』は、きっと自分自身を今よりも好きにしてくれるはずですから…。

 ちなみに…車椅子のマークが付いている駐車スペースに車を止めないことも布施です。

釋 完修
合掌
[2012/02]

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