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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の六十三
【 『お墓』と『仏像』 】

 船越英二、片平なぎさ、言わずと知れたサスペンスの帝王と女王である。彼らは決まって事件の解決を、海の見える崖の上で行う。どんな都心や街中で起こった事件でもである。たとえそれが山深い山村で起きた連続殺人事件でも…やはり解決は…海風吹く、崖の上だったりする。全国にどれくらいのサスペンスファンがいるかは知らないけれど、ほぼ10人に言えば7・8人は笑いながら『そう、そう』と、うなずいてくれるはずである。それほど有名で定番のシーンが『海の見える崖の上での解決シーン』である。

 その有名なシーンに続いて多く流れるシーンが『墓所・お墓参りのシーン』である。事件解決を報告に行ったり、被害者や加害者の家族のお墓参りにいったり、時には殉職した同僚のお墓参りだったりと、いろいろなシチュエーションで我々の前に現れる。この『お墓参りのシーン』も『崖の上の解決シーン』同様全国のサスペンスファンは数限りなく目にしているはずである。金沢に住んでいるサスペンスファンも当然目にしているはずである。

 なのに?…である。

僧侶として月参りやご法事に出るようになって25年。だれ一人質問してこないのはなぜだろう?誰か一人でも、質問してきても良いと思うのだが…。何のことかおわかりだろうか?お墓の正面、お墓の一番上にのっている墓石(サオと言う)の正面に彫られてある『字』の事である。

 サスペンス劇場に出てくる墓石、そのほとんどにはその家の家名が彫られている。『〇〇家』というように。しかし浄土真宗の門信徒(檀家)のお墓には『〇〇家』と彫られることはほぼ無いと言っていい。そこには必ず『南無阿弥陀仏』の六文字が彫られている。北陸は真宗王国と言われるだけあって、特に金沢は七割は真宗門徒である。墓所には『南無阿弥陀仏』と彫られたお墓が建ち並ぶ。なのに、なぜ一人も『うちのお墓と違うのはなぜですか?』と質問してこないのだろうかと云う話である。

 さて、こう言われてみれば不思議に思われてきたのではないだろうか?『なぜ?』…と。

 簡単に言えば、世間一般で言われているお墓は、浄土真宗の教えに照らし合わせるなら、それはお墓ではないからである。

『何が簡単なもんか!お墓はお墓でないなんて!よけいわからんようになったわ!』

と言う声が聞こえてきそうである。ごもっともである。では、そこの所をわかりやすくお話することにします。

 『南無阿弥陀仏』の六文字(六字名号と言います)…この文字の下に蓮華の花を描けば…それは本尊と等しいものとして扱う。それが当宗派の約束事です。つまり蓮華の花(蓮台)の描かれた南無阿弥陀仏は、そこに阿弥陀如来の仏像があるのと同じだということです。

 お墓のサオの下の台を蓮台と呼びます。その上のサオに南無阿弥陀仏が乗っているのですから、そこには阿弥陀如来の仏像があるのと等しいということになります。つまり浄土真宗のお墓は、お墓ではなく、阿弥陀如来の仏像なのです。

では…なぜ?仏像にお骨を納骨するのでしょうか?

それは、阿弥陀仏が、私より先に亡くなった、すべての『いのち』の集合体だからです(小話 お荘厳・2参照)。

 浄土真宗では、亡くなった人(人だけでなく命すべて)を一個人として捉えません。過去から現在そして未来に続く『いのちの流れ』と捉えます。と同時に亡くなった人を『仏(ほとけ)』と捉えます。仏…すなわち、生きている私たちの目(認識)を目覚めさせてくれる存在、または生きている私たちを正しき道に導いてくれる存在と捉えます。

 話は少しずれますが…ほとんどの人が『亡くなった人』=『仏』と思っているのではないでしょうか。仏とは、決して亡くなった人を示す言葉ではないのです(小話 仏さん参照)。前述したように、私たちを正しき道に導いてくれるすべてを指し示す言葉なのです。その仏を具現化、表現した姿が阿弥陀如来の仏像、当宗派の本尊・阿弥陀仏なのです。話を元にもどします。

 亡き人は、その自らの死を持って娑婆に残った私たちにさまざまな事を教えてくれます。残った私たちも、亡き人から、さまざまな事を学びます。それはなにも、亡くなった人の家族だけにとどまりません。縁あるすべての人に通ずることです。

 亡くなった人を『仏』と捉える浄土真宗は亡くなった人は阿弥陀如来と等しいと意味づけます。

 故に、個人名や家名のお墓に納骨するのではなく、お墓の形をしている阿弥陀如来の仏像に納骨するのです。これが浄土真宗のお墓が、お墓であってお墓でない理由です。と同時にお墓の正面に『南無阿弥陀仏』と書かれている理由でもあるのです。

釋 完修
合掌
[2012/03]

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