其の六十七
【 送るこころ(葬式の意味・2) 】
『家族葬』という形の葬式はない。えっ?今ちまたではそういう名前の葬式が行われているではないか?テレビでも言ってたし…。と言われるかもしれない。しかし、無いものは無い。
本当に誰にも知らせず、それこそ密やか密やかに葬式を執り行うなう密葬ではなく、かと言って広くその死を知らせる葬式でもない。そんな葬式を、体裁よく『家族葬』と名をつけ呼んでいるだけのことである。
人によっては…
知らせない葬式(密葬)。
知らせる葬式。
ちょうどその中間の葬式形態のように思っている人もいるが、家族葬という、その名称だけが一人歩きしているだけなのである。
そもそも家族葬という名称自体に問題がある。密葬だろうが、自宅葬だろうが、お寺や会館、公民館…どんな形式で行おうが、弔問客が居ようが居まいが、たったひとりで送ろうが何千人で送ろうが、家族(遺族)が執り行う葬式ならば、それはすべて家族葬である。言い換えるなら『社葬』以外はみんな『家族葬』である。
火葬場へ直接向かう『直葬』と呼ぶ方法が増えているが、それとて、『直葬』という葬式形態があるわけではない。ほんの数年前までは、火葬場に直接向かうなんてことは、ごく特殊な場合だけであった。身寄りがない。もしくは、身元がわからない。そういう、やむにやまれない場合の苦肉の選択だったのである。その苦肉の選択が、あたかも『直葬』という葬式形態があるがごとく、これもまた、名称・言葉だけが一人歩きしているのである。
葬式の執り行い方は千差万別、亡くなった人を取り巻くさまざまな状況、環境で違ってあたりまえである。また、違わなければ嘘である。しかし…ただひとつだけ、忘れてはならないことがある。選んだあなたの葬式の、その送り方は、大変だとか、面倒だとか、邪魔くさいだとか、そんな思いが入っていませんか? 真摯にその死を受けとめて敬いを持って送る、その気持ちを持って執り行う葬式ですか?と言うことなのです。
こんなことなど、本当は言ったり書いたりする必要のないことです。ただ、あえて言ったり書いたりしなければならない時代になってきています。
■介護老人施設で亡くなった自分の母親の葬式にも訪れず、職員からお骨を取りに来てくださいと連絡をもらった息子さんが『いそがしいので宅急便で送ってください』といったり…
■直葬でお葬式をすませた遺族が〇万円ですんじゃった。安くついたわと、まるで物を買ったり売ったりするような表現を平気ですることができたり…
■自分の家族のお骨を電車に平気で忘れていったり…(だれも受け取りにも、問い合わせもないそうです。ある意味わざと忘れていったとしか思えないと係りの人は言います)
■葬儀式場での通夜終了後、『今晩、ここに誰か居なくちやいけませんかね?』と真剣に真顔で質問する遺族がいたり…(お棺・ご遺体だけを式場に残して、全員がホテルに宿泊にいってしまう遺族もいるそうです)
このような例は、上げればきりがないほど聞いたり見たりする時代になってしまいました。
人が人として、人の心が壊れているとしか思えない時代に。
当たり前のことですが、すべての人の心が壊れているわけではありません。ただ一日一日壊れていく人が増えているのではないでしょうか?言い換えれば、壊れずにいることが難しい時代に…
世の中で、やってはいけない事、一般的にダメだとされていることでも、世の中全体の9割の人が行えば…
やってはいけない事はやって良いことに化けてしまいます。
ダメだとされていることもヨシに変わってしまいます。
そうやって私たちは、心を壊そうと思わなくても、知らず知らずのうちに壊わされていっているのではないでしょうか。壊れている自分に気づくことさえなく。
こんな時代だからと時代のせいにしていませんか?皆していることだからと言い訳していませんか?その事が当たり前のように感じていませんか?だからこそ、ほんの少し『自分自身を見つめて』みてください。ほんの少し『その事柄について考えて』みてください。物事の、それを行う『本当の意味に気づく』ために。その意味に気づいて、自分自身が昨日の自分より、より深く人間的に魅力のある今日の自分になるために。
考えて、その考えが自分本位だけになっていないか自問自答し、これが精一杯だと思えるのなら、密葬でも、今、家族葬と呼ばれている式の執り行い方でも、言葉がひとり歩きしている直葬でも、それはそれでよいと思うのです。
そこに、真摯に亡くなった人と向かい合う自分がいるのなら。
そこに、真摯に亡くなった人を送る心があるのなら。
みなさんは、どう思われますか…
合掌
[2012/06]
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