其の七十
【 見て見ざるもの(本尊とお仏壇) 】
『新しく仏壇を買ったのでお経をお願いしたいのですが…』知り合いの大先輩の僧侶(60代後半)のお寺に電話があった。俗に言う『おあたまし』、もしくは『たましいいれ』とか言われるものである。字ヅラから、新たに魂を入れるお経だと勘違いされているが、いくら法衣を着て毎日読経している私たち(僧侶)でも、魂を入れたり出したりそんな変わったことが出来るはずなどもうとうない!浄土真宗で正しくは『入仏式』、古い言い方で『お紐解き』と言う。新たにその家に『阿弥陀如来の本尊』が入るの意で入仏式。阿弥陀如来の本尊は通常巻物(掛軸)になっている。その紐を初めて解いてお仏壇に掛けるので、その意味でお紐解きである。
早々に時間と日を決め、『入仏式』を執り行うためにその大先輩は出掛けた。十二畳の仏間には、真新しい一間半ものお仏壇が置かれていた。一間半…畳約一畳半。市内では珍しい大きさである。きらびやかに金箔が施されたお仏壇の中央には、浄土真宗の本尊である阿弥陀如来の絵像が掛けられてあった。
大先輩いわく、その家の主人に『見事な細工の立派な仏壇だが、このご本尊…どこで求められた?』
主人いわく『あーそれかいね。仏壇買ったところの人が、高い仏壇買ってもらったんで、オマケや言うて付けてくれたんやけど』
筋の通らない話が大嫌いな性分も手伝って、わりと短気な大先輩である。その大先輩に主人のこの答え…導火線に火が着いた。
『どこの仏壇屋や!そんなこと言うたんは!電話もってこいっ!』
その剣幕に押されて、この家のご主人、そくさとその仏壇屋さんに電話した。
電話の向こうには仏壇屋さんの店主が…
受話器に向かって大先輩の怒涛の声が…
『お前かっ、阿弥陀さんオマケや言うたんは。言うに事欠いてオマケとはなんや!本尊やぞ!オマケって言うんなら、阿弥陀さんのオマケが仏壇じゃ!!』
受話器の向こうで平身低頭青くなっている店主の姿があった。
本末転倒を絵に描いたような実話である。ただ…どれだけの人がきちんと意識してわかっているだろうか? お仏壇は本尊(阿弥陀如来像)を掛ける入れ物に過ぎないということを。何百万する仏壇だろうが、何千万しようが、そこに阿弥陀如来がなければ、そのお仏壇はただの箱でしかないのである。大切なのは仏壇本体ではなく、そこに掛かっている本尊なのだ。故に浄土真宗では、お仏壇をお仏壇とは言わない。『お内仏』と言うのである。家の内(中に)いる仏であると…そう呼ぶのである。
昔から今の形の様な仏壇が各家々に置かれていたわけではない。遠い室町時代には『床の間』がその役割を果たしていた。当時は床の間に仏画をかけ、花立て・香炉・燭台の三具足を置いてお参りしていたのである。今の仏壇の様な形で置かれるようになったのは江戸時代に入ってからである。余談だが、今、床の間の中央に香炉を置くのは、床の間でお参りをしていた頃の名残りである。
仏壇の大きさの単位を〇〇代(だい)という。畳約一畳のものを二百代、一畳より少し小さめのものを百五十代、畳約半畳のものを七十代というように。しかし、もともとこの『代』という大きさの単位は、本尊の大きさを表す単位である。つまり、二百代や百五十代や七十代の仏壇が先にあるのではなく、二百代の本尊を掛けるために二百代の大きさの入れ物が、百五十代の本尊を掛けるための百五十代の大きさの入れ物が要ったのである。よく『この仏壇には、この大きさの阿弥陀さんしか掛からんねぇ~』と言われるが、逆である。この大きさの阿弥陀さんやと、この大きさの仏壇やぞいねが正しい言い方になる。ここにも本末転倒の話がある。ちなみにこの『代』という単位…本山(東本願寺・京都)から本尊を譲り受けるときに、本山に納めるお礼のお金の単位であった。
本尊を納めるお仏壇が要らないとまでは言わないが、やはり大切なのは入れ物ではなく、中身である。
写真のように、これだけあれば十分なのである(この形が床の間でお参りしていた時の姿である)。(小話 お荘厳・2参照)。
浄土真宗の本尊・阿弥陀如来像は、ただお参りをするためだけの対象物ではない。真宗の本尊は『真宗の教えそのもの』なのである。本尊に、自分より先に亡くなった全ての命を重ね合わせる(小話 『お墓』と『仏像』参照)。その命の積み重ねの中で生きていることに気づいていく。本尊と向かい合うことによって。さらに本尊の姿は数々の教えを含んでいるのである。真宗の本尊・阿弥陀如来像が…
・寝像でもなく座像でもなく立っている『立像』なのも…
・その目が見開くでもなく閉じるでもない、薄目を開けているような『半眼』なのも…
・頭の後ろから四方八方に光が出ている『後光』があるのも…
・蓮の花『蓮台』と呼ばれるものの上に立っているのも(小話 娑婆に咲く花参照)…
それら全てに意味がある。限りある命を生きる私たちが、限りある命をしっかりと生きていくための『教え』『智恵』を目に見えるカタチにして現しているのである。今ここでそれを書き始めると、小話何十話分にもなるので折に触れ小話一話一話として書いていくつもりである。
どうしても、きらびやかな仏壇に目がいく。お参りしていても、本尊ではなく、亡くなった父や母、夫や妻に目がいく。当たり前のことである。何の不思議もないことである。しかし、浄土真宗の教えはそこに留まらないでくださいと教えます。大切な愛する者の死は、生きている私たちに、大きくて深い命の積み重ねとその積み重ねの中で生きている『私』を気づかせてくれる存在だと説きます。亡くなった人は仏…本尊(阿弥陀如来)と等しくなったと説きます。(小話 仏と霊と妖怪と参照)。
その意味でもやはり大切なのは本尊なのです。
合掌
[2012/07]
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