其の七十一
【 通夜の焼香 】
『お通夜のお焼香はいつするのが本当なのでしょうか?』ある葬儀社の社員の人に尋ねられた。確かに最近はデタラメになってきているのは事実である。
お通夜の席に急ぎ駆けつける。駆けつけたその足で遺族へ挨拶に…。当然その時刻には、遺族は式場の遺族席についている。自然な流れで弔問客は祭壇に向かい焼香することになる。このお焼香が、通夜の焼香になってしまっているのが現状である。しかし、この焼香はあくまで通夜の式場に馳せ参じた『挨拶』の焼香であって『通夜式』のお焼香ではない。
通夜としてのお焼香は、やはり通夜式が始まってから行うのが本来の形である。
では、いったい通夜式のいつするのが正式なのだろうか?
浄土真宗(金沢地域)では通常、通夜のお勤めは二回行われる。
始めに『阿弥陀経』。
読経後に法話。
一時の休憩を挟んで『正信偈』を勤める。
この休憩の時にお焼香に出るのが『通夜式』としての正式な作法である。正確に言うなら『阿弥陀経』読経後、つまり僧侶の読経を聞いた後に焼香をすると言うことである。通夜式前に焼香を済ませた人も、本来はもう一度この時に『通夜式』としての『お焼香』に出なければならないのである。
元来『お焼香』は、お焼香することが目的ではない。えっ?と思われるかもしれないが本当のことである。目的は焼香後の合掌にある。身近な人の死を知らされ急ぎ弔問に参詣する。その荒ぶる心を、香のかおりを嗅ぐことによって静め、真摯に亡くなった人と向かい合う自分をつくる。その後、静かに合掌する。焼香はこの合掌に導くための準備なのである。
その導かれた合掌には深い意味がある。
インドでは人間の最も美しく自然な姿は、直立して、身体の縦の中心と横の中心(ミゾオチの少し上あたり)で両手を広げて合わせる姿だとされていた。つまり直立して胸の前で合掌する姿である。この姿をもって、相手に対して最大級の礼を現したのである。
『ありがとう(感謝)』も
『すみません(お礼)』も
『ごめんなさい(謝罪)』も
『お願いします(依頼)』も
『お任せします(信頼)』も
『お任せ下さい(信用)』も
『喜び』も『悲しみ』も、『後悔』や『懺悔』も、すべてこの合掌に込められている。それは直立しての合掌の姿が、相手に対して威嚇もせず、見栄もはらず、自らは卑下もせず、飾らない、それこそ、その人そのままの姿を現しているからである。
お通夜での合掌は、人の生死を教えくれた人(仏)に対して礼節を尽くすということに他ならない。
ではこの焼香合掌が、なぜ僧侶の読経後でなければならないのだろうか(正確にはお経を聞いてから)?
その理由は私たち僧侶が読経するお経にある。世にあるお経(経典)と呼ばれるものはすべてお釈迦さん(釈尊・仏陀)の説法である。お釈迦さんの時代、お釈迦様は今で言うセラピストの役割をしていたと言える。人生に悩み、苦しみ、行き先を見失った人たちに、その人たちに合わせて法を説いていたのである。その説法をお釈迦さんの死後、お弟子さんたちが書き残したのが今あるお経(経典)と呼ばれるものである。余談になるが、私たち僧侶は決してお経を空んじてはいけないことになっている。必ず手に持って目で追って読まなけれならないとされている。なぜなら、それがすべてお釈迦様の説法であるから。つまり代読しているのある。
お釈迦様の説法を聞き、その説法を聞く縁を与えてくれた亡き人に感謝し、命あるものは限りある命を生きているのだという普段私たちが忘れてしまっていることを、そして弔問に来ている私は、今、生きているんだという普段あまりにも当たり前に思っていることが、いかに有り難いことなのかということを、その身を死して教えてくれた亡き人に礼節を持って向き合う。そのために、焼香は僧侶の読経のあとでなければならないのである。
合掌
[2012/08]
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