其の七十二
【 命と想いの連鎖 】
『今月でわかば(仮名)30歳になるんですよ』心臓に疾患があり、その疾患のために肺機能の約3分の2を失って産まれてきた赤ちゃん。心臓と肺の同時移植しか助かる道はないと言われ、手術をしなければ5・6歳までしか生きられないでしょうとお医者さんから言われた赤ちゃん。そう言われた赤ちゃん(女の子)の30歳の誕生日の月だった。
月参りに参詣し『ご坊さんチョコレート食べる?コーヒー入れるから』そう言われ茶の間での雑談のなか。『わかば(仮名)ちゃん、体の具合どう?』私の問いかけに対する答えが冒頭のお母さんの言葉である。
『(わかばちゃん)頑張ってるね』そう言う私に、『ええ。でも、だんだん弱りです』そう答えたあとに静かにお母さんは話始めた『この間の検診のときに、お医者さんに言われてね。この体の状態で生きているのが不思議だって。ほとんど呼吸できてないはずだと…。肺のレントゲンをじっと見て、このほんの一部の場所で呼吸してるんだ!って先生、感心してました』
『凄いね。人間の生きる力って…』
『5・6年が、いま30年だもんね。今も頑張ってるし。一生懸命に生きてるよね。わかばちゃん。そしてお母さんも…』
『ええ。一生懸命。さつき(仮名・わかばちゃんの妹)が誉めてくれてね。お姉ちゃんも偉いけど、お母さんも偉いって。よく頑張ってるって』
『さつきちゃんも親になったから、よけいにお母さんのこと分かるようになったんやろね…』
お母さんも私も二人とも、目に涙をためながら話していた。
お母さんの涙も私の涙も決してわかばちゃんを憐れんだ涙ではない。憐れむどころか、むしろ感動の涙である。『生きる』と云うことへの感謝と不思議。ただひたすら一途に生きる姿に出会った感動の涙と言える。
一途に生きるわかばちゃんの姿は、お母さんを含めお父さんも妹さんも、わかばちゃんに関わるすべての人を、もちろん私も含めて『生きる』と云うことを考えさせてくれる『縁(きっかけ)』となる。
現に妹さんは、ハンデを持つ姉のいる私だから、ハンデを持つ人の世話が出来るはず。ハンデを持つ人の気持ちも、その親の気持ちも他の人よりは分かるはず。そう言って福祉の道に進んだ。今では立派な看護師さんである。
30年前に訪れた辛く悲しい現実は、何度一緒に死のうと思ったかわからないとお母さんが言うように、深い悲しみと悩みと苦しみをこの家族にもたらした。
『不思議と不幸だなんて思ったことなかった。そりゃ大変じゃないって言ったら嘘になる。何処に行くにも車椅子がいるし、今と違って昔は大変だったから。酸素ボンベ一つにしても、予備を準備しとかないといけないし…夜も呼吸してるか心配だし…でも不幸だとは思ったことは一度もない』とキッパリと話す。
1年先、1ヶ月先、生きていなかもしれない我が子が、1日1日生きていてくれる。そのことの『ありがたさ』。むしろ不幸どころか幸せだと語った。
何もこのお母さん(家族)が特別なのではない。どこにでもいるごく普通の主婦(家族)である。ただ、母は母親を、父は父親を、妹は妹を、それぞれがその自分を一生懸命に生きているのである。
これが親なんかね…雷なっても、地震だっていっても起きない私が、一緒に寝ているあの子が、少しでも痛がったり苦しがったりするとパッと目が覚めるのよ。まさしく母親以外の何者でもない。
母親と言えば、こんな話を思い出した。
母一人子一人の家庭。母親が入院をして半年。本人とお医者さんの頑張りもかなわず、病状は日に日に悪化していった。ある日、危篤の知らせが息子さんに届いた。急いで駆けつけた。病室では口に酸素マスクをつけた母親姿があった。ベッドの回りには心電図や血圧を診るため器具が置かれてあった。母親の手を握り、頑張れと声をかける息子さん。次第に母親の呼吸が荒くなっていった。苦しいのだろう。辛いのだろ。そう思うと胸が痛くなったと息子さんは後で語っていた。母親の手を握る自分の手に力が入っていった。息子としての願いの分だけ。
しばらくして、母の口が動いているのに気がついた。しきりに動いている。お袋!何か言いたいのか!急いで母親の口元に耳を近づけた。何かを言っている。聞き取らねば。一心に耳に神経を集中させた……
後に息子さんは涙ながらにこう語った。『あの時ほど…母親と云うものの凄さを感じたことはなかった』と。そしてこうも付け加えた『ただ、ただ頭の下がる思いだった。ごめんなさいとありがとうの入り交じった、ただ手を握って頭を下げるしかなかった』と。
息も絶え絶えのなか、手を握る息子に向かってたった一言…
危篤と言われるそのなかで母親が息子に告げたその言葉は…
『おまんな(お前は)食べとるか』
だった。
どこまでも想われる愛。拒もうが拒もうが想われ愛。私たちは脈々とその愛情の繋がり(積み重ね)の中で生きていています。
考えてみてください…
私が子を想う、孫を想う。我が子が自分の子を思う。その子がまた自分の子を想う。
私→私の子→孫→ひ孫→→未来永劫に続く命と想いの連鎖。
考えてみてください…
私が自分の親に想われる。祖父母に想われる。自分の親もその親に想われる。そのまた親もその親に。
私←親←祖父母←その親←←遥か過去から連なる命と想いの連鎖。
この命と想いの連鎖を浄土真宗では『無量寿』と言います。正信偈の一番最初の句『帰命無量寿如来』の『無量寿』のことです。
『無量』とは数えることの出来ないほどの時と想いのこと。無限に連なる時の流れと推し量ることの出来ない想いのこと。
『寿』とは命のこと。
故に今、生きている私たちは、その一人一人が大切に大事に大きな愛情とくじけずに、くさらずに、なげださずに人生を生きていてくれと言う想いをかけられて生きているのです。
浄土真宗に限らず、その他の宗派でも、およそ仏教と名のつく宗派は、この事に気づき、一生懸命に『生』を生きることを説いています。
少し話はそれますが…実は宗教とは、この事を説いていることが宗教の宗教たるゆえんなのです。『宗』は『ムネ』と読みます。『ムネ』は『胸』に通じて『中心』と云う意味です。宗教とは、ものごとの中心を『教える(説く)』のが宗教なのです。決して、お金がもうかったり、いい会社に入れたり、受験にうかったり、運気があがったり、亡くなってからいいとこに行けたり出来ると説くことが宗教ではないのです。逆に言えば、こう言って説いている宗教は宗教ではないということです。
話を元にもどします。
精一杯の願いを受けて生きているわかばちゃんが、お母さんの精一杯の願いに精一杯答えて生きている。ここに人が産まれ生きて死んでいく、人としての『生きる』と云うことの『生き方』の一つを教えてもらった気がします。
『しっかりしなくちゃ』『わかばちゃんに笑われるな』そう想いながら、その家をあとにした。
合掌
[2012/09]
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