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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の七十四
【 観光 】

 MC(コンサートの曲と曲の間にはさまれる雑談)が面白いので有名な武田鉄矢さんの話で、貧乏だった子供の頃『なんで家にはサンタがこんとね?』と母親にきいたら『家(うち)は浄土真宗じゃけん!サンタはこん!』と言われたと云う有名な話がある。

 この時期(12月)にはいると決まって思い出す。それというのも12月になるとかならず、毎年…決まって…同じことを聞かれるからである。

『ご坊さんはクリスマスするがけぇ?』

または『ケーキ食べるがぁ?』

もしくは『プレゼント買ったりするがぁ?』等々

そのたびに『ほら!家(うち)は寺だから…サンタさん素通り…』と笑って切り返している。

 日本のクリスマスは諸外国のクリスマスと違い、宗教色はない!と言っていいほどない。いわばお祭り、イベントと化しているのが実情だ。だから、そんなに坊主、寺院、仏教徒だからと決め決めにしなくても良いのだが…なにせ子供のときからの『すりこみ』とは恐ろしいもので、いまだにクリスマスはピンとこない。

 そう言えば今思い出したが『クリスマスせんが?』と聞く私に父が『家は寺だからクリスマスはせん!サンタもこん!お御堂に煙突ないやろが!』と毎年言われていたんだった。

 子供心に『そっか!家に煙突ないからなんやぁ!!』と妙に納得していたもんだった。

 今考えてみれば、40数年前の能登の輪島の田舎に、煙突のある家など一軒もあるはずがない。あるとしたら風呂屋ぐらいである。今だって無いと思うのだが…。

 それぞれの家庭には、それぞれの家庭(家族)の事情がある。それは、その家庭が何を生業にして生活しているのかによっても違うし、その家庭が山間部で生活しているのか…海辺で、都市部で…どこで生活しているかによっても違ってくる。さらに言うなら大家族なのか、核家族なのか、子供がいるのか、いないのか。お爺ちゃんおばあちゃんがいるのか、いないのか。母子家庭なのか、父子家庭なのか…上げればキリがない。

 故に同じ様な家庭はあっても、『同じ家庭』などあるはずはないのである。そんなことは、私が今ここで言わなくても皆が知っていることである。

 なのに……なぜみんな『同じ』に固執するのだろう。社会でも、地域でも、教育ですら『他と違う』ということを嫌う。

 日本全国どこに行っても同じ様な店が並び同じものが売られている。道路も用水も川も同じように整備されいる。教育も『子供の個性を尊重しよう』と良いながら、横並びの教育を押し進めている。そこにしかない店があって、そこでしか売られていないものがあって、それで良いのではないだろうか。

 雪の降る地域と、雪の降らない地域と、同じように用水や川を整備する必要があるだろうか。子供の描いた太陽が『黒い』からといって『その色は違う』と直させる必要があるだろうか。『同じ』でないことが『平等』でない。『同じ』でないことが『差別』である。と勘違いしているように感じるのは私だけだろうか…。

 『観光』という言葉がある。観光とはその字のごとく、『光(ひかり)』を『観(み)る』と書く。

この光とは『知恵』のことである。

その土地土地でつちかわれてきた知恵。

その土地の風土、気候に合わせて創意工夫されてきた知恵。

その土地・地域で、生活・生きていくために、あみだされた知恵。

その知恵を『観る』ことを『観光』というのである。

ちなみに、この観るは、触れ、感じ、学ぶという意味である。

名称やテーマパークに行って、ピースサインで写真を撮ってくることが観光ではないのである。

 衣食住に根付いている知恵を観てくることが観光なのである。そこに生きている生活の伊吹を感じてこなければ、そこに住む人たちの生活を感じてこなければ、本当に観光してきたとは言えない。

 昔から『可愛い子には旅をさせろ』と言われた理由もそこにある。様々な地域の、そこに住む人たちの知恵と工夫と努力を観て学ぶ。そして旅に出る前より、人間的に一回りも二回りも成長して欲しいと言う親の願いの現れと言える。

 多くの観光を主としている地域が、この違いを消すことに躍起になっている。綺麗に、同じに、そして生活感を感じさせないように。観光客のために道路を広くしたり、観光施設に行くために道をつけたり、古い街並みを保存と言う名目で新しい材料で綺麗にしたり…。

 しかし、本当に観光を主とするなら、逆に、その土地に住む人たちの生活の伊吹を見せることに価値があると思うは私だけだろうか…。いつも不思議に思うことがある。独自性、独創性と声高だかにいいながら、やっていることは結局みんなと同じ、他と違うことを嫌うという物事の考え方を…。

 『同じでない』ことは、決していけないことではない。『違っている』ことも決していけないことではない。

 いけないのは、『同じでない』『違っている』ことに疑問を持たないこと、それが何故なのか考えないことにある。

 『違い』に『なぜ?』をくっつけてみませんか。そうすれば、もっともっといろいろな物事の『光』が見えてきます。

 違いの光が見えてくれば、その違いは『誇り』となるはずです。そしてその『誇り』が、本当の意味で地域を、人間を個性的にしていくのです。

釋 完修
合掌
[2012/11]

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