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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の七十五
【 絆(きずな) 】

 東京の本社勤務の辞令ががでた。妻帯者用の社宅が支給されるという条件だった。妻君との相談の結果、単身赴任ではなく妻と三歳の娘の家族三人で行くことにした。

 友人の会社員の家族の話である。

 東京での生活は、奥さんを喜ばせた。そこはやはり東京…無理もないことである。しかし…半年でこの東京生活を喜んだ奥さんは、子供を連れて金沢に帰ってきた。

理由は二つ。

ひとつは

『あの場所(東京)で、子供をちゃんと育てる自信は私にはない』

ふたつめは

『あそこ(東京)にいたら、私の気が変になってくる』

というものだった。

 金沢に帰ってきた友人の妻君の話を聴いて、思わず『正解!!』と言ってしまった。

さて……

この小話を読んでいる皆さんも、この妻君の話を聴いてみてください。聴いたあとで、みなさんは『正解』と思うでしょうか?それとも『不正解』と思うでしょうか?

 妻君いわく…

社宅暮らしは快適でした。まわりの奥さん方もみな親切でした。わりと年齢も近かったので、ときどき7・8人で茶話会などして、おしゃべりを楽しんでいました。

 ある時それぞれの夫の話になりました。

 私は、残業で夜遅く12時すぎに帰宅した夫が、お腹か減ったと言ったので急ぎ簡単な物を作って食べさせた話をしました。夜中だし、消化の良いもの、でもそこそこお腹のふくれるもの。そんなものを他の奥さん方が知っていたら、教えてもらいたかったからです。だから、夫の話の後に聞いてみたんです。

『何かよい料理はありますか?』って。

そしたら、びっくりするような答えが返ってきました。そこに居た全員が、

『何でそんなことしなくちゃいけないの?』って言うんです。

私は最初みんなが何を言っているのか、理解できませんでした。

 よくよく話を聞いてみると、他の奥さん方の言い分はこんなんでした。『夜遅く帰って来たのは夫の都合(勝手)である。私も子供も夕食は済み、片付けも終わっている。ましてやもう布団の中で休んでいる。だから、わざわざ起きて夫に食事を作ってやる必要などないであろう』というものでした。

 またある時、朝、出勤や通学に出る夫や子供に

『気をつけて行ってらっしゃい』と玄関で声をかけていたら、後で近所の奥さん方に、

『何でそんなこと、いちいち言うの』って質問されました。私には、何で言わないのって逆に不思議でなりません。

万事がこれです。

わかります?頭が変になりそうなの?だから夫には申し訳ないけれど、ごめんなさいって言って帰って来ちゃいました。居れんわ。あそこには…

以上が妻君のお話です。

 この奥さんが『その場所』に居れないのは、その場所に…そこで生活している人たちの中に、『本物の愛(相手を大切に思う想い)』がないことが見えたからです。

その場所の人たちは…

言葉づかいは丁寧でしょう。

教養も持ち合わせているでしょう。

身のこなしもガサツではないでしょう。

着ている服もお洒落でしょう。

自分の子供は可愛、大事だと思っているでしょう。

人には親切にとも考えているでしょう。

 けれど…夫だと言うのではなく、ご飯を作らないからダメというのではなく、身内、一緒に住んでいる者が働いて夜遅く帰って来たそのことに、『ご苦労様、大変でしたね』という想いやりが無いことが不思議なのです。大切な人の無事を願う『気をつけてね』という言葉を、何でそんなことをする必要があると言い、何でいちいちそんなことをいわなくちゃならないのと疑問に思うその心が不思議なのです。

『お疲れさま』『気をつけて』のこの二つの言葉を言わずにはおれないはずなのに…。

 東京がとは言いません。大都市がとは言いません。けれど都市部ほど、大きく人の心が、根っ子の所で壊れているよに感じられるのです。

 都市部。特に大都市ほど、そこに三代・四代と住んでいる人たちより、地方や農村部、漁村部から移り住んできた人たちの方がはるかにたくさん住んでいます。そしてそのことが、そこに本当に人を思いやる心が失われる原因があるように思えるのです。

 何代も何代も同じ地域に住んでいる人たちの集まりである地方の市や町や村。そこにはある一定の、その土地ならではのルールが自然と作られていくものです。お互いが気持ちよく生活していくために。

 そのルールは、小さな子供も成人した大人も年配の人も関係ありません。みな同じルールの中で生活しているのです。

 そしてそのルールは長い年月をかけて、人を想いやる心・気配りへと進化しました。

 都市部には、特に大都市には、たくさんの人が住んでいます。しかしほとんどがさまざま地位から移り住んだ人たちです。それ故に習慣や慣習、言葉や味の好み、考え方や物事の判断基準、それらを測る土台はバラバラです。

 たくさんの人間が集まれば、いろいろな違いのある人が居るのは当たり前のことです。そして、それに加えて地域の違う人たちが集まれば、もうそこに同じ土台を築くことは不可能に近いものが生まれます。しかし、人が集まれば集まるほどある一定のルールは必要です。それこそお互いが気持ちよく生活するためのルールが。

 ルール作りが始まります。自然発生的に。そして出来上がったルールは、出来るだけ自分自身に楽な、出来るだけ人と関わらないルールになりました。

 細かい近所付き合いのやりとりも、人との言葉のやりとりも、必要最低限の範囲におさめるものになりました。

 地域のルールには、大切だけれど、煩わしいと思われるる習慣も多々あります。それゆえに、その煩わしいと思われる物は都市部の新しいルールの中に盛り込まれることはありませでした。

『人は川の水が上流から下流に流れるがごとく、楽な方へ楽な方へ流れて行く』昔からよく言われるこの言葉のように、そんなルールになってしまったのです。

 そのルールは、やがて定番となり、都市部のルールとして都市部に根付いて行きました。新たに都市部にすみ始めた人も、楽なルールに染まるのに時間はかからないはずです。楽だから…。

 『楽』『煩わしい習慣の排除』は人を自分本意にしてしまいます。判断基準はすべて自分。ある意味、身勝手な人間を作ってしまうと言っても良いと思うのです。

 私の子供の頃…ごく日常的に交わされていた挨拶…家から出かける時に近所の人と必ず交わされた言葉のやりとり…

『こんにちは』

『こんにちは』

『どちらまで』

『ちょっとそこまで』

『気をつけて行ってらっしゃい』

『ありがとう』

と云うこの挨拶も『あそこの場所』では…

『かまうな!』

『人が何処に行こうと勝手じゃないか!』

『なんでいちいちお前に言わなくちゃならない!』 『煩わしい!』

となってしまいます。

それどころか『あそこの場所』では、この挨拶をかわすこと自体がタブー(非常識)となるのです。

この煩わしい挨拶が、実は地域の、隣近所の防犯に役立っていたことにも気づかすに…。

 『絆』と言う言葉があります。

『絆』とは『糸』遍に『半』と書きます。一つの糸の半分づつを(お互いに端を)互いに持つと書きます。

そして…

お互いが端を持つその糸は、絹糸より脆(もろ)く、ダイヤモンドより堅い糸です。罪も 嘘も 憎しみも 怒りも 喜びも 悲しみも 愛情も 友情も…全てを紡いだ糸の束です。

『絆』とは、そんな意味の漢字です。

 面倒くさいことも、煩わしいことも、自分の徳にならないようなことも、自分の気に入らないことも、実は『絆』なのです。

互いに糸の両端を握ると云うことは、そういうことなのです。

 仕事をして夜遅く帰宅する夫を、それは貴方の勝手だと言う。出かける我が子や夫に、気をつけて行ってらっしゃいという声かけを、何でそんなことを言う必要があると語る。

その人たちの中に果たして『絆』はあるでしょうか?

 昨年の未曾有の震災の後…毎日TVが、新聞が『絆』を連呼しています。日本中の大多数の人間が『絆』は大事だと叫びました。

…けれど…ならば…

家庭の中・家族の中でさえ『あの場所』に『絆』はあると言えるでしょうか?

 私たちは、もう一度ど今、『絆』の本当の意味を掘り下げなければならないのではないでしょうか。

『絆』をただの流行り言葉にしないために。でなければ、日本中いたるところが『あの場所』になってしまいます。金沢に帰って来た細君の言う『あの場所』に。

 楽で煩わしくないあの場所は、人が生活して行く上で、本当に気持ちよく生活して行ける場所でしょうか。

みなさんは、どう思われますか…

釋 完修
合掌
[2012/12]

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