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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の七十七
【 常識と云うものさし 】

 『この場所で言い争い(喧嘩)は不謹慎ですよ』しばらく静観していたが、いっこうにおさまる気配がないのでこう言って割って入った。

 場所は斎場(火葬場)。それも収骨室である。金沢、能登、福井…それぞれの地域に住む親戚が一歩も引かず、まさに三竦(さんすく)み状態である。

 ことの顛末(てんまつ)はこうである。

斎場での火葬が終わり、収骨の時となった。遺族親族がみんな収骨室に集合した。係員の一通りの説明も終わり、いざ収骨となった時である。

『なんで(お骨)全部持って帰らんのや!!』

突然、一人の男性が声を荒げた。それを待っていたかのように別の男性が言い出した。

『違う違う、こんなに持って帰らんでいい。小さい箱三つ用意して、それに少しだけ入れて持って帰るんや!!』

二人の男性の言葉のあとに

『二人とも、こんでいいがや!金沢は壺(骨瓶・こつがめ)に入るぶんだけ持って帰るがや!!』

それぞれの男性が収骨の仕方が違う、常識がないと言って引こうとせず、言い争いになったのである。

 ご存知の方もいるだろが…金沢と能登、福井では、収骨の仕方が違う。

・金沢では…火葬されたお骨は、直径20センチほどの素焼きの瓶に、その瓶に入る分だけ収骨する。お墓には、その家で亡くなった人の人数分の瓶が納骨されていることになる。

・能登では…火葬されたお骨は、全て収骨する。約30センチ四方の白木の箱(骨箱)に納めるのが通常である。能登のお墓は、その納骨する場所が地面下に1メールほど掘ってある。その穴に骨箱からお骨を移して納骨する。金沢のように、一人一人の瓶が並ぶのではなくお骨としてまとめるのである。

・福井では…金沢、能登とは違いほとんどのお骨は斎場に置かれて行く。収骨するお骨は、直径15センチ四方、または直径10センチの小さな瓶に少しだけである。ただ三体作る。一つはお墓に、一つは自分の檀家寺に、一つは本山に納骨するのが通例となっている。

この三通りの地域の人間が一同に会して収骨するのだから、もめるといえば当然もめる。当たり前と言えば当たり前なのである。

しかし…お互いが一歩も引かないのはいかがなものか。おまけに、引かない理由がいただけない。

『自分の住んでいる地域と違う』

『自分の住んでいる地域の方法が常識である』

『自分の住んでいる地域と違うのは常識に反する』

『自分の住んでいる地域の方法が常識だから、それ以外は認めない』

この論法がいただけない。

 他の国から見れば日本という国は小さい国である。しかし、北は北海道から南は沖縄まで南北に細長い国である。海もあれば山もある。川もある。くわえて春夏秋冬の四季もある。同じ時季に、北海道では雪が降り沖縄では桜が咲く。それゆえに、習慣・風習の違いはさまざまである。その違いは食べ物の食べ方に始まり生活、文化、言語にまでおよぶ。今自分が住んで生活している地域の常識と言われるさまざまな事柄が、他の地域の常識とは限らないのである。

 余談だが、居酒屋で通常『お酒』と注文すれば『日本酒』が出てくる。しかし、九州では『お酒』と注文すると9割の確率で『焼酎』が届けられる。お酒といえば焼酎が常識なのである。

みのもんたさんが司会を勤める『県民ショー』というテレビ番組がある。人気番組なので視聴されたこともあると思われるが…まさに、県や地域よって、さまざまな事柄が、さまざまに違うのである。

ある意味『違う』ということが『常識』と言える。

 私たちは、自分の生きてきたその時間や経験・知識によって自らの体内(こころ)の中に『ものさし』を作っている。この自分の『ものさし』で『ハカレるもの』を常識ととらえ『ハカレないもの』を常識外、認めないという傾向が多い。このことが、自分の目や心を曇らせ、大切で大事なことに気づいていけない大きな原因の一つである。

 『ものさし』が出来るのはしかたのないことである。同時に『ものさし』は必要なものでもある。自分の中に『基準』がなければ良いも悪いも、正解も間違いも、して良いこともしてはイケないことも、自分の進むべき道さえも判断することができないはずだから。

 だからこそ、自分の中の『ものさし』を、『木やプラスチックのものさし』にしてはならない。その物事・出来事を柔軟にハカレる『伸び縮みするメジャー』にしておかなければならない。固い寸法の決まった『ものさし』ではそれ以上のものはハカレない…メジャーならば、そのときどきによって、長さを変えてハカレる(判断)はずだから。

 このことは、人と人の間にも、国と国の間にも言えることである。お互いがお互いを尊重しあうには、わかり合うには、『こころのものさし』を絶えず意識して、その物事・出来事を柔軟にハカレる『伸び縮みするメジャー』にしておく必要がある。

でなければ…

 先述した言い争う三人の男性の姿は、紛れもない私たち一人一人の自分の姿となってしまうのだから。

釋 完修
合掌
[2013/02]

ちなみに…

収骨室での言い争の結末は『金沢の方法で収骨』で落ち着いた。

その時の会話が以下である。

『金沢で葬儀をして、金沢で火葬し、金沢にある墓地に納骨します。残ったご家族はこのあとも金沢で生活をしていかなければなりません。ならば、今回は、生活を続けて行く金沢の習慣に従って収骨するのが理にかなっているのではないでしょうか。それでも、ガッテンがいかんと言われるのなら、福井と能登の方にお願いがあります。もし遺族の方々が金沢の習慣と違うと他の誰かに非難されたなら、福井と能登から金沢に出てきて、非難した人、一人一人に説明していただけますか?

この人たちのせいではない、私が私の地域の習慣でしなさいと言ったのだからとお話していただけますか?非難されるたびに、何回でもそのたびに来ていただけますか?

でなければ遺族の人たちが困ると思うのですか…

それでも自分の意見を通すと頑張るのなら、言うだけ言って、はい、さようならはしないですよね?』

『……』

『……』

『返事がないようですが、今回は金沢の習慣で収骨してよろしいのですか?』

『はい』

『はい』

『それでは、みなさん、どうぞ収骨なさってください』

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