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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の七十八
【 五つの「みる」 】

 世の中で、あらゆる事柄に対する対応・言い方・接し方・考え方がおかしくなっています…

 極端な言い方ですが、学校は、小学校であれ、中学校であれ、高校でも、昔でいうところの『読み書きそろばん』学問を教える場所です。集団生活、集団でのルールも学びますが、それはあくまで勉学する場、学校生活の中に付随しているにすぎません。主は『学問』を教える場です。

 言い換えれば、それだけの場所です。

 教室で我が子を担任してもらう先生は、ひとつのクラスの担任として責任はありますが、クラスの生徒たちの『親』ではありません。全員他人の子供です。

 当たり前のことです。

 なのに…

 小学校で教員をしている友人がいます。父兄面談のとき、

『うちの子はニンジンが嫌いなんですけど、食べれるようにしてください』

そう話すお母さんが多いそうです。

でもそれは学校の先生にお願いすることでしょうか?

高校で教員をしている同級生がいます。父親から

『娘が夜中に外出する。何とかしてほしい』

と言われるそうです。

これも学校の先生にお願いすることでしょうか?

 子供の好き嫌いを無くしたり、夜中に遊び回る子供を叱ったり、連れ戻したり、そんなことを先生がしなければならないのなら…(最近の親は本気でそれらが先生の仕事だと思っている人が多いそうです)…親(父母)なんて居なくて良くなってしまいます。

 偏食、素行、言葉使い、挨拶、箸の上げ下ろしから、礼儀作法等々、それらを教えるのは他のだれでもない親のつとめです。それを教えてこその親なのですから。

親になるとは、そういうことのはずです。

親になるとは、そこから逃げられなくなることです。

 我が子を愛して可愛がらない親はいません。昔から『親バカ』と言われる言葉があるように、我が子は何をしていても可愛いものです。

しかし、その愛し方、可愛がり方すらおかしくなってきています。

 眼科医に、近視ではなくキチンと医療用・目の治療用の眼鏡をかけさせなさいと言われているにもかかわらず、自分の子供が周りを見るのに、よく見えない生活をしているのにもかかわらず、眼鏡屋さんに治療用眼鏡を作りに来るお母さんのほとんどがこう言うそうです。

『メガネをどうしても掛けさせないといけませんかね?メガネを掛けるこの子がかわいそうで…出来ればかけさせたくないんですが…』と。

お母さんの本心です。メガネは格好悪るかったり、煩わしかったりするからこの子にはかけさせたくない。かわいそうだと言う思いです。

 みなさん…お気づきになられましたか?

このお母さんの言っていることのオカシさに?

『かわいそうだ』の向いている方向の間違いに?

 そうなのです。

 今現在、回りが良く見えずに生活している我が子。見ずらいということは、とてつもなくいろいろなことに影響をあたえ、危険なはずなのに、見ずらいということで口にださないまでも苦しんでいる我が子よりも、メガネをかけさすことの方がかわいそうだと言っているのです。

 それは、我が子がよく見えるようにならなくていいといっているのと同じことです。我が子かわいいのなら、愛しているのなら、見ずらいままでいることの方がかわいそうなはずです。かわいそうだからメガネをかけさせたくないは、そのかわいそうの本当の意味(だれがかわいそうで、何が本当にかわいそうなのか)を思い違いしている、我が子を可愛がるということを思い違いしていると言えます。

 公園での出来事です。

還暦を過ぎた男性が公園のベンチの前で三歳ほどの女の子を抱き抱えていました。それを見たその女の子の母親は叫びました

『家(うち)の子に何してるんですか!!』

抱き抱えている男性は見知らぬ人でした。

警官がやって来ました。

男性は変質者・痴漢者扱いを受けます。男性、お母さん、警官、野次馬、公園は大騒ぎになってしまいました。

 けれど、その男性はベンチに腰かけて読書をしていただけでした。その前に三歳の女の子が駆けてきて転びました。足からは血が出ています。急ぎ男性は女の子を抱き抱え、ポケットから出したハンカチで血をぬぐってあげていたのでした。

 それでは…なぜ母親はそんな誤解をしたのでしょうか?

簡単な話です。

公園での他のお母さん方とのおしゃべりに夢中になっていて、自分の可愛い三歳の娘からずっと目をはなしていたからです。

転んで血を流している事にも気づかず、男性が親切で傷をぬぐっていることにも気づかず。

母親が次に我が子を目にしたとき、見知らぬ男性が可愛い我が子に何かしているとしか映らなかったからです。

母親は警官に何回も言っていたそうです。

『私の大事な娘に…』『私の可愛い娘に…』と。

大事で可愛くて大切な娘なら、それもまだ三歳の子供から、なぜ目をそらすのでしょう。なぜおしゃべりに夢中になるのでしょう。その時点で言っていることとやっていることが真逆になっています。

その還暦過ぎの男性は後でこう話しました。

『目の前で子供が倒れても抱き起こしたらダメなんやね。変質者になってしまうから。なんて時代や』と。

 何でも人まかせ。親が親である証明の躾(しつけ)さえ他人まかせ…。

 我が子にとって、本当に『かわいそう』なのは何かに気づけない可愛がり方…

 愛することの責任を背負わない愛し方…

 そのどれもが、物事をその事柄を、そして自分自身をキチンと『みて』いない、『みれ』ないということが引き起こしているのではないのでしょいか。

 『みる』を漢字変換すると必ずこの五つの『みる』がまず表示されます。

『見る・視る・観る・診る・看る』です。

この五つの『みる』は、実は繋がっています。

そしてそれは、私たちがいろいろな物事に出くわした時の、私たち自身の物事の考え方の手順を表しているのです。

●『見る』‐まず物事をみる。物事に出くわす。いろいろな状況になる。

●『視る』‐次にその物事、状況を注意して、しっかりと正しくみる(把握する) ↓

●『観る』‐把握した物事をじっくりと観察(考える、思考する、思慮する)

●『診る』‐考えて得た答えが本当に今の事態に合っているか、ベストの選択かを診断する。

●『看る』‐考えて行動したり言ったりした事柄に責任を持つ。看護(良い悪いも経過をみて、正しければ良し、間違っていれば反省する)

●『見る』‐そしてまたさまざまな事柄に出会い、いろいろな状況になる。

そうやって『みる』が循環するのです。

 いかがでしょうか?

 人生を生きて様々な事柄に出くわしていかなければならない私たちは、例え面倒でも、邪魔くさくても、したくなくても、この『みる』を心がけていかなければなりません。

 でなければ…

 先に書いた小学生や高校生の父兄、メガネをかけさすことを、かわいそうだと話す母親、言葉と行動の真逆なお母さんは、私たち一人一人の姿になってしまうのです。

釋 完修
合掌
[2013/03]

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