BONZE
bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の七十九
【 リンゴとキャベツ(阿難の眼) 】

 『お母さん、下駄箱の上のアレなんや?』

月参りに訪れたある門徒さんの家。玄関先で草履を抜ぎながら迎えに出てくれた奥さんに問いかけた。玄関に備え付けられた下駄箱の上には、白いレースの布に乗っかったリンゴが一個…

『ありゃ。ご坊さん。知らんがかいね?』奥さんが得意気に話した。

『昨日テレビで、白い布の上にリンゴを東向けに置くと運気が上がるって言うとったからしてみたんや』

『ありゃ!運気上がるってか?(苦笑い)』と私。

『本当にまた、惑わされて…今に騙されて壺買わされるぞ(笑い)』

『そんな騙されんわいね。壺なんか買わんわ』

『なに言うとるん。今もテレビに騙されとるがいね』

『だいたい、なんて言うた今…リンゴをどうするって?』

『だから、ご坊さん。言うとるやろ。白い布の上にリンゴを乗せて東向に置くって…』

『うん、リンゴを白い布の上に置くのはわかったわ。ほな聞くけど…

リンゴを東向にって言うけど、じゃぁ、そのリンゴ、どっちが表や…どこが前やいね? 向けろって言うなら向けるけど…リンゴ、東に向けてなんて置けんがいね(苦笑い)』

奥さん一言『えっ!』

しばらくして、リンゴを手に取った奥さん、おそるおそる、いわく。

『ヘタ、コッチに曲がっとるから、反対側のコッチかな…』

『こら(笑い)…リンゴに裏も表も、前も後ろもあるかい。ほら、言葉のオカシナことにも気づかんと騙されとるがね』

『えーーーっ』と奥さん。

 講師として招かれた、ある公民館主催の教養講座。私たちが日常の生活の中で、いかに惑わされ、迷っているか、その滑稽(こっけい)な私たちの姿をわかってもらうために、いくつか実例を出して話した。そのうちの一つが前述した『リンゴの話』である。

 講演が終わって、質疑応答の時間になった。七十歳前後の男性が手をあげた。

『どうぞ』という私の声にその男性は話始めた。

『今は、科学が発達していて、農業でも目覚ましいものがあります。光の当たり方もいろいろ調べればわかるようになってきています…』

うん? (なんか変?)

『だから、リンゴを調べれば東側から光があたったのか、西側から光があたったのかわかるのです』

えっ?(ちょっと変?)

『ですから、そのリンゴの表や裏、前も後ろも、今はわかるんです。リンゴに表裏、前後ろがナイというのは間違いです』

えーっ!そこかぁ~っ!

 正直びっくりした。

『リンゴの話』のそこを問題にしたその男性に…。

『失礼ですけど…』そう言う出だしで応答した。

 さっきお話した『リンゴの話』は、リンゴの表裏、前後ろのアル、ナイを言ってるんじゃないんです。人の惑わされる、迷う姿が、いかに滑稽か、さらにはすぐに迷い迷ってしまう私たちの姿が日常の中にこんなにある。そういうことに気づきましょうと言う話なんです。リンゴは例えなんですと説明させてもらった。

 しかし、説明のあとの男性の言葉に、会場全体が、ズッコケた。まるでコントのように。男性の言葉は…

『今の説明はよくわからなかったんですが…リンゴの前後ろがあるのを知らないなんて、そんな間違いの話をするなんて、おかしな事を言う人だなぁ~と思って』で、あった。

 似たようお話をもうひとつ…

 その奥さんの息子さんは、東京の大学に通っている。当然実家は金沢なので、アパート住まいである。なかなか器用な息子さんで、自炊生活の毎日もあまり苦にならないらしい。先日その息子さんから実家に連絡があった。お米が残り少なくなったから送って欲しいと言う。バイトのお給料が出るまでまだ間があるのでお米を買うお金がないらしい。お米も残り少ないので、オモユやお粥にして量を増やして食べているらしかった。奥さんいわく

『仕送りたくさんできるわけじゃないけど、そんな話聞いたら、なんか可哀想になってきたわ』

私いわく

『いい経験しとるがいね。お金がなくてキャベツにマヨネーズかけたり、醤油かけたりして食いつなぐ生活も今やからできるんで、学生生活はそのぐらい苦労した方がいいと思うよ。いい経験や…』

この言葉を聞いた奥さん、すかさず、

『でも、ご坊さん。キャベツ、今、高い(値段)がいね』

おいおい!!

この会話で、なぜキャベツの値段が問題になる。そう言う事を言ってるんじゃないじゃん。びっくりである。

『論点』もしくは『問題点』話の内容が伝わらない。その話が何を言いたいのか、何を問題にしているのかが伝わらない。

伝わらないならまだしも、論点がすりかわり、問題点も別のものになってしまう。そうなれば、もう会話は成り立たない。会議も相談事も成り立たない。人と人との意志の疎通が、考え方や思いが通じあわなくなってしまうのである。そういう人が増えている…

 それは一体なぜなんだろう?そう考えてまわりを見てみた。まわりを気をつけて見ていたら、その原因の一つに気がついた。

 それは、毎日流されるTVや新聞だった。毎日流される情報、事件、時事。ニュースキャスターの言葉。ワイドショーのコメンテーターの論説。国会の答弁。役所と言われるところの回答、説明。それらのほとんどが、この『論点』や『問題点』を『ずらした』いや『論点』や『問題点』を『すり替えた』ものになっている。それは、答えるにはばかるもの、説明すると都合の悪くなるものを隠すためのように…

 例をあげてみる。

ある市の役所で、Αさんという所員が役所を早退して居酒屋で酒を飲んでいた。一人で飲んで居たわけではなく、役所に出入りをしている業者とであった。しばらくしてΑさんは、別の出入り業者に電話をかけた。そして『お前の所はまだ一回も挨拶に来ないじゃないか』と恫喝した。このことが市民の知るところとなった。役所のとった事の対処は、役所職員全員への『禁酒令』だった。

 みなさん、おわかりだろうか。『問題点』の『すり替え』が。

問題にしなくてはならないのは

『酒を飲んでいたこと』ではない。重要な問題は、挨拶がまだだと自分の優位な立場をして、出入りの業者を『恫喝』したことである。いわゆる『パワーハラスメント』といわれるものである。が…役所から出た対処は禁酒令である。

 見事な、と云うか、なんて幼稚で分かりやすくて、滑稽な問題点のすり替えだろう。これではまるで、日常的に恫喝・パワーハラスメントは行っています。けどそれを問題にすると自分たちが困るので、とりあえず〇〇令という令を発令して身を正しますという姿を見せ、都合の悪いことを分からなくしてしまおうという作戦ですか…と思われてもしかながないと思うのだが。

 その他にも、各TVのワイドショー。そこにいる各コメンテーター。彼らのすべてとはいわないが、ほとんどの人が、そこにある避けては通れない大きな問題を見ようとせず、重箱の隅をほじくるがごとくの問題を論説する。あたかも重大で大切な問題を私たちに気づかせないためのように。

 今で言えば、原発の問題がそうである。どのコメンテーターも問題にしているのは原発の稼働の『是』か『非』である。しかしそのまえに、原発を今後どうしていくかを問題にして考えいかなければならないはずである。まず将来の原発(エネルギー)のあり方を決めなければ稼働の是非などきめられないはずである。みなさんもご承知の通り、原発は、稼働してもしなくても、どちらにしても毎年莫大な税金が投入されている。その一点をしても、まず、キチンと将来を見据えた論議こそが求められている。なのに誰もその問題にはふれようとしない。

 気がつけば、嫌にやるくらい、特に公共機関、企業、政治、政治家、マスコミのなかに、この『すり替え』が堂々と臆面もなく、あたかも当たり前のようにはびこっている。私たちは、あまりにも、ある意味普通にはびこり過ぎて、それに気づくことができなくなっている。そしていつしか、自分自身も、その事柄の論点や問題点をつき、判断して話をすることができなくなっているのではないだろうか?

すり替えをすり替えと感じる力が…

論点や問題点にそって会話する力が…

奪われているように思えるのは私だけであろか。

 『阿難(あなん)の眼』をもって物事をみなさい。私がまだ二十代のころ、ある僧侶の先輩に教わったことである。阿難とは阿難尊者ことで、お釈迦様の身の回りのお世話をしていたお弟子さんの一人である。

 お釈迦様の五百人のお弟子さんの中で、阿難尊者は悟りを得るのが一番最後だったといいう。お釈迦様の側(そば)で、絶えず、毎日、お釈迦様の説法を聞いていたはずの阿難尊者が…。

なぜ? そうだったのでしょう。それは、お釈迦様の相手に合わせて、相手の身になって説法するそのお話の仕方にありました。

 お釈迦様を尋ねてくる、さまざまな悩み、苦しみ、辛さ、悲しみを持った人たち。その人たちに、お釈迦様は、その人一人一人に合ったお話をしていたのです。体の屈強な人にはそのように…、体の不自由な人にはそのように…、辛さ、悲しみも、その辛さや悲しみに合わせたお話をしました。それゆえに、阿難尊者は毎日のお釈迦様の話が違うのに戸惑い、なかなか悟りにたどり着けなかっという理由(わけ)でした。

 そんな阿難尊者をお釈迦様は大層可愛がったそうです。たくさんの人に説法するその時、『阿難よ聞け…阿難よ聞け…』と阿難尊者に向けても説法を聞かせていたと伝えられています。

 その僧侶の先輩は、この阿難尊者のいろいろなお話を聞いて迷う姿を、物事を多角的にとらえ、見て、考える姿だと学んだそうです。そこから、『一方向からだけ物事を見るのではなく、いろいろな角度から見て、物事の本質(論点)に気づく目』を『阿難の眼』という言葉を使って教えてくれたのです。

 今、私たちに必要なのは、この『阿難の眼』です。過剰に進んだ個人主義は、多種多様な価値観、道徳感、主義主張を現代社会に産みました。そのこと事態は悪いことではありません。いろいろな人間、いろいろな考え方があって当たり前なのですから。

 しかし、だからこそ、そこに中心となる『論点』『問題点』を読み取る『力』が何より必要なのです。論点や問題点のすり替えに気づき、キチンと論点や問題点にそって会話ができる『力』が…。

 そのことが、ひいては、自分自身も、自分に都合の悪いことや具合の悪いことなどから目をそらさず、悲しみも苦しみもキチンと背負い、あらゆる物事から逃げない『私(わたし)』をつくりあげて行くことに繋がって行くのです。

 私たちに一人一人が、この『阿難の眼』もったなら、今の、この殺伐とした世の中は変わります。

確実に…。

なぜなら、世の中を作っているのは…紛れもなく、私たち一人一人なのですから。

釋 完修
合掌
[2013/04]

小話のご意見・ご感想はこちらまでメールしてください。


↑TOP