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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十
【 一歩一歩 】

 毎月お参りにお伺いしているお宅のお爺ちゃんが亡くなった。四十九日も終わり、お婆ちゃんにこう話した。

『今まで3日にお参りに来てたけど、どうする? 今までの3日と、お爺ちゃんの15日と月に二回くればいい? それともお爺ちゃんの15日にまとめて来ようか?』

答えてお婆さん『そやね、じいちゃんの日にまとめてもらおうかいね』

『うん、わかったよ。じゃこれから15日に来るようにするね。午前中に来るからね』

答えてお婆さん『15日の午前中やね』

『うん、そうや』

それを受けてお婆さん『ほな15日待っとるね。午前中やね。じいちゃんの命日やし、わたしゃ何処にもいかんわいね。待っとるし。午前中やね。わかったよ。で…ご坊さん…午前中何時に来る?』

『え! だから、午前中に来るって。婆ちゃん午前中どこもいかんやろ。心配せんでもちゃんと午前中来るから』

この答えを受けてお婆ちゃん『うんわかった。午前中やね。ばあちゃんどこも行かんと待っとるわいね。じいちゃんの命日やしね。で…ご坊さん…午前中何時に来る?』

『だから、午前中待っとるまし。ちゃん来るから。ばあちゃんどこも行かんのやろ。15日の午前中は…』

お婆ちゃん答えていわく『うん、命日やし、どこも行かんよ。午前中やね。で…ご坊さん…午前中何時に来る?』

『わかったわいね。午前中10時から11時の間に来るから…』

まるで志村けんのコントのような会話である。

 『待てなく』なった現代である。私の父親が現役でお参りに伺っていた時代のように、ザックリと午前中、午後、夕方、夜という時間のくくりは今は通用しない。確かに待つ側とすれば当然だろう。大体の目安の時間を決めておくことは、今はお互いのためには良いことだと思う。

 このおばちゃんの『待てない』はまだ笑い話になる。笑って済む話である。しかし、もうひとつの…これからお話する『待てない』は笑ってはいられない。ある意味、恐ろしい意識に繋がっていく『待てない』なのである。

 私が小学生のころ、『あしたのジョー』というボクシング漫画があった。当時、子供たちばかりでなく大人にも大人気の漫画だった。ライバルである力石徹が主人公との試合で命を落とした時など、熱烈なファンが集まり、本当に力石徹のお葬式を出して社会現象にもなったくらいである。近年では、ジャニーズのヤマピーこと山下智久さんが主人公の矢吹ジョーを演じて映画にもなっているので、若い方々にもどういう物語なのかわかっていただけるのではないだろうか。

 『あしたのジョー』…この漫画は週刊の少年誌で連載されていた。驚くことに、ボクシング漫画であるにもかかわらず、主人公のジョーがボクシングを始めるのは連載から約半年がたってからであった。その半年間、原作者の梶原一騎さんと漫画家のちばてつやさんは、主人公の性格、生い立ち、彼を取り巻く環境や、その他の登場人物などを丁寧に描いていた。あしたのジョーという物語の世界に命を吹き込むために。と同時に読者を、あしたのジョーの世界に引き込むために。その作業に半年かかったのである。

 この『半年間』を、編集者も出版社も、なにより読み手である読者が『待てた』のである。

現在の雑誌の編集者は言う。

『今では考えられないことです。なぜなら、いまの読者は待てないんです。待ってくれないんですよ』と。

『待てない』『待たない』とはどういうことなのだろうか?

 それは、主人公を取り巻く環境よりも、まずボクシング漫画なのだから、ボクシングをしろ!ということらしい。野球漫画なら野球の試合を、テニスでも、サッカーでも、はては不良の漫画でも、さっさと試合(喧嘩)をしろと…。つまり、毎週毎週なんらかの盛り上がりがないと読んでもらえないらしいのである。丁寧な人物描写などいらないということらしい。

 この『待てない』は若者の間に広がっている。そして、この『待てない』は、物事をじっくりと性根を据えて考えられないということに繋がっていく。結果、様々な人生の問題の答えを急ぐのである。

二十代後半にならなければ気づかないことがある。

三十をすぎなければ見えてこないことがある。

四十代五十代で初めてわかることがある。

それこそ、八十をすぎなければ見えてこない世界もあるはずである。

生きて行く、生きてきたその積み重ねのなかでしか、私たちは『答え』を見つけてはいけないのである。

なのに、若者は急ぐ…答えを…結果を…結論を…。

『待てない(考えない)』から。

『待つ(考える)』ことができずに。

 このことは、別の言い方をすれば、考えて答えを導く。気づく。のではなく、『答え』は与えられるものだと思っているともいえる。

 ある青年に『人生(自分の)をどう生きていけばよいのでしょうか?』という質問を本気で質問されてビックリしたことがある。年長者として何かヒントは言えれるかもしれないが、この青年は、真剣に『答え』を欲していた。『その答え』は、自分であがき、悩み、もがいて、たどり着くべきものである。また、そうでなくてはならない。

 全国あちこちで、似たような問いがなされているようである。

『五体不満足』の著者である乙武洋匡(おとたけひろただ)さんも、同じような質問をされたことがあると自分の著書のなかで書かれていた。乙武さんの、その答えは秀逸である。

『君は、これから生きるであろう何十年という月日を、他人から貰った答えで生きて行くつもりですか?』であった。

 命終わるその間際までわからないことがある。

命尽きても答えの出ないことがある。

時間をかけなければ出せない答えや、積み重ねた経験でしか理解できないことがある。

十年たってやっとたどりつける答えがある。

五十年たってもたどり着けない答えがある。

そして、答え一つではない。

人の生きる数だけ答えはある。

その事を知っていて欲しいのです。そして、答えを得ることが目的ではないことも。大切なのは、『答えを求め続ける姿勢』なのだということを。

 だからこそ、自分の人生を、ゆっくりと、時間と経験を積み重ねながら『歩いて』行って欲しいのです。

一歩一歩、丁寧に…

一歩一歩、しっかりと…

一歩一歩、力強く…

一歩一歩、大地を踏みしめるように…

 そうやって歩いた『一歩』の積み重ねは、やがてあなたに(私たち)に 、かけがえのない素晴らしいものを与えてくれるはずですから。

釋 完修
合掌
[2013/05]

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