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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十二
【 一期一会 】

 あるお婆さんの、こんなお話があります。

 そのお婆さんの息子さんの奥さん…つまりお嫁さん。このお嫁さんは、嫁(とつ)いできてから不思議でなりませんでした。五年もたつのに、姑になるこのお婆さんが嫁(私)の悪口をいっているのを他からも、自分の耳でも聞いたことがなかったからです。

 お嫁さん同士の集まりでは必ずお姑さんの悪口が出ます。と同時にお姑さんが自分たちの(嫁)の悪口を言っていると言う話も必ず出ます。そんな中で、自分は自分の姑がそんなことを言っているという噂さえ聞きませんでした。不思議で不思議でしかたありませんでした。

 なぜなんだろうかと。そんな出来た嫁でないことは自分が一番知っていました。料理も下手だし。気がまわるわけでもないし。口下手で御上手も言えないし。ある時思いきって姑に聞いてみました。『なぜ?』かと。するとそのお婆さんは静かに、しかし、きっぱりとこう言ったそうです。

 『私はあんたを育てた覚えはひとつもない。お乳をやった覚えも、看病した覚えもない。でも、そんなあんたが、私の事を「お母さん」と呼んでくれる。産んでもいないあんたが、「お母さん」と呼んでくれるがやぞ。それはただ事ではない。そこには深い縁があるに違いない。そんなあんたの悪口を何でい言えることやろうか』と。

 お嫁さんは、そんなものの考え方があることにビックリしたそうです。と同時に素直に頭が下がったそうです。

 この物事の受け取り方(見方・考え方・捉え方)は、そのままお嫁さんの方にも言えることです。

 世間では、嫁いで来た息子の奥さんを「嫁(よめ)」と呼びます。けれどその嫁は実は「娘」になったということです。我が子・娘に。

 産んで育ててもらった覚えのない私が娘になるのです。姑が「娘」と呼んでくれるのです。産んだ親なら当たり前です。しかし、産んだわけでもない人が娘と呼ぶのです。それはただ事ではありません。

 このお互いの『出逢い』『繋がり』『関係』を『ただ事ではない』と感じる心。感じれる心を『一期一会』と言います。

 人は生きる人生の中で、様々な出来事に遇っていかねばなりません。どれだけ何事もないようにと願っても、何の出来事にも遇わない一生などあるはずはありません。なぜなら、生きるということは、様々な出来事に遇うと云うことなのですから。

 そして、その様々な出来事に遇う事で、私たちは、たくさんの人たちと出会っていきます。

その出逢いが…

『愛』であったり、

『尊敬』であったり、

『情』であったり、

『慈しみ』であったり、

『友情』であったり、

または、

『憎しみ』であったり、

『怨み』であったり、

『嫉妬』や『やっかみ』であったり、私たち一人一人の心に様々な『感情』の出合いを生みます。

いろいろな出来事との出会い。

たくさんの人達との出会い。

さまざまな感情との出合い。

そのすべての出会いを、偶然とせず、必然にしていく。

そしてその出会いのなかから何かを学んでいくこと。

それが『一期一会』の本当の意味だと思うのです。

そのことが、すべての人の人生を有意義に豊かにしていくことに、つながっていくとも思うのです。

喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも、辛さも、憎しみさえも必然としていくことが…。

 先に述べたお婆さんの思いは、偶然を必然とし、出合いを、親と子という出合いにまで深めました。

 特別なお婆さんではありません。ごくごく普通のお婆さんです。お嫁さんも同じです。どちらかと言えばドジでオッチョコチョイのお嫁さんです。

 けれど二人とも『一期一会』の『意味』に気づきました。その出逢いがただ事ではないという事に。

 そのことが、この二人の嫁姑の関係をより良くしていくだろうことは容易に想像できます。

 喧嘩や言い争いはあるでしょう。けれど…ちまたで良く言われる嫁姑とは違うものなっていくはずです。

『一期一会』の教えは、人をより豊かに、人生をより深くしてくれます。

 人間が、その一生で出会える人の数など知れています。だからこそ、ひとつひとつの出合いを『一期一会』とみていかなければ、せっかくの人間としての一生が虚しいものになっていくのではないでしょうか。

 私も、この小話を通してたくさんの人たちからご意見をいただきます。私と、この小話を読んでくださっている方々と、この小話を通しての出合いも『一期一会』なのだと思うのです。

釋 完修
合掌
[2013/07]

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