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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十三
【 必要不可欠な決意 】

 『わかちゃいるけどやめられない』ご存知植木等さんの代表曲「スーダラ節」の名フレーズである。小話「わき出る力」で書いた通り、植木さんの父徹誠氏が、まさしく真宗に通じると語ったことでも知られているフレーズである。

 『わかっちゃいるけどやめられない』

この言葉は、どうせ人間だから…

どうせ凡人なんだから…

どうせ俺なんて…

そう言って開き直るための言葉ではない。

『やめられない』

そう言ってあきらめるために使う言葉でもない。

 この言葉が真宗に通じる真理であると徹誠氏に言わしめたのは、人間のどうしようもない『性(さが)』、人間が持つ『業(ごう)』を言い表したものだからである。

 『業(ごう)』とは仏教用語、梵語karman(カルマ)の意訳で『行為』のことである。

人間の身・口・意によって行われる行為。

理性によって制御できない心の働き。

そこから突き動かされる、自分では、どうすることも出来ない行為。

その行為の善し悪しではなく、したい、したくないではなく、そうすることしか出来ない行為のことである。

 『業』についてのお話を二つ。ひとつ目は私の祖母の話である。

 私が大学生の時だっろうか…夏休みに京都の大学から家に帰り本堂にお参りに行くと、本尊(阿弥陀如来像)の前にある前卓(まえじょく‐本尊の前にある卓で仏花、蝋燭、香枦を置くための卓)が、新しくなっていた。

 早々祖母に聞いてみた。『あれ、新しくしたん?』

祖母曰く『そう!寄付してもろうたがや!』

『はぁ?あんな高いもの…誰が寄付してくれるかいなっ!ほんとか?』

どう見ても普通の前卓ではなかった。輪島塗で金箔が貼られ、それはそれは立派なものだった。

祖母は私に聞かれ、バツが悪そうに言った『お里(祖母の実家)に寄付してもろた』

祖母のお里は輪島塗の漆器屋さんであった。けれど、私が生まれてこの方、ほとんど付き合いなどしていない親戚である。どちらかと言えば疎遠になっている親戚であった。そこが寄付だなんて…

ばぁちゃん…何かあるやろう?聞いてみた。

すると祖母が話し始めた…。

 『お父さんの(祖母の夫、私からすればお祖父ちゃん)の五十回忌をしようと思って、せっかくだから前卓を直そう思ってな。

漆も塗り直ししなきゃならないし…金箔も張り直ししてもらわんとダメだから…こんな折にと、お里に直してもらおうと連絡したがや。取りに来てくれんかって』

祖母の話しは続く…

『そしたら、なっ、壊してしまいよって!持って行く途中でバラバラに脚とか外れてしまったがや。だから…ババは一言!言うたがや!』

祖母曰く『壊したなっ!!』

『どうしてくれる!!』

『そしたら…新品になった』

おいおい、ばあちゃん。

そりゃ壊れるやろ。

五十年どころか、七・八十年前の年代物の前卓やもん。おまけに一回も直してないからいつ壊れてもおかしくなかった卓じゃんか。もしかしたら、動かそうとしたら壊れるの知ってて言ったんじゃ…

 次の日、伯母(祖母の娘)にこの話しを知っているかと聞いてみた。すると静かに

『初めからそんなつもりじゃなかったと思うよ。でも一言出たがやろね』

と言葉が返ってきた。

叔母曰く。

祖母の夫が亡くなったとき、祖母の実家の人達は全員あっちを向いたらしい。あっちを向くと云うのは、夫を亡くしてこれから幼い子供を六人育てていくのは大変になる。金銭的にもいろいろと。だから何か言ってこられたらイヤだから知らんふりを決め込むことである。その時の祖母の怒りようは凄まじかったという。

『だれか一回でも助けてくれと言ったか!金のムシンをしたか!頼ったか!人を馬鹿にするにもほどがある!』と。

なるほど、だから祖母の実家との付き合いがなかったわけである。この時初めて理解できた。と同時に、祖母の憤りと悲しみも…。

 祖母の行為は、まさに業の成せるわざである。

恨みや憎しみがとらせた行為ではないことは祖母の性格から察することが出来る。修繕を頼むなら、せっかくだからお里に…と思ったに違いない。それに、女手一つで六人の子供を育ててきた人である。意地も気概も持っている。私が!という自負もある。しかし、みんなの助けがあればこそという感謝も忘れなかった祖母であった。

 けれど『何か』言わずには、『一言』言わずにはおられなかったのである。

 二つ目のお話は、八十歳を過ぎて、孫のお葬式に参列しなければならなくなった、ある老大の男性の言葉である。

『この歳まで生きて、孫の葬式に会うとは思わなんだ。ワシが先やと思っとった。代わってやれるもんなら代わってやりたい。でもそれも叶わんことや。どれだけ悲しくて辛くても、わしゃ生きとる。業やなぁ』と。

元気で長生きは喜ばしいことである。みんなそれを願っている。元気で長生きな人は自分の今を喜ばしいものとして生きているであろう。

しかし、その喜ばしい日々が、孫の死に出会う事になっていく。どれだけ私が先なのにと思っても自分は生きている。それは、自分ではどうすることも出来ない行為である。『生きている』という『行為』は。

 私たちは、だれ一人、漏れることなく、この業にまみれて生きている。過去も今も、そして未来も。

 多くの宗派は、この業を因縁、因果応報と説く。特に宗教もどきの団体は、過去の業が今をダメにする。だから業を断ち切りましょうと説く。でなければ悪いことが、あなたの身に降りかかりますよ、もしくは、今、良くない事柄が起こっているのは、過去の因縁のせいです。その業を断ち切りましょう。そうすれば、あなたの徳になる良いことが訪れますよと説く。

そして、多くの人たちがそれにうなづくのである。

 考えてみてください。もう一度…うなずいた人も、うなずかなかった人も。

『業』とは、断ち切れないから『業』と言うのです。自分の都合のいいように断ち切れるぐらいのものなら、そんなものは『業』でもなんでもないものです。

故に、浄土真宗には、『業』を断ち切る教えは存在しません。

代わりに『業』を背負っ生きろと説きます。

どうすることも出来ない人間としての行為。

自分の思いとはウラハラに行ってしまう行為。

そのことすべてに、責任をもてと説きます。

 では、業を背負い、背負った業に責任をもつとはどういうことなのでしょうか?

 自分自身の行った行為→その行為によっておこるさまざまな出来事→その行為の積み重ねよっておこるさまざまな出来事→その出来事の積み重ね→それらすべてに…

『なぜ?あんなことをしたんだろう?』

『なぜ?私はこんな目会うんだろう?』

『なぜ?次から次にいろんな事がこの身にふりかかるのだろう?』

なぜ?なぜ?なぜ?とその理由ばかりに目が行き一歩も前に進まない状態…言うなれば人生を後ろ向き考える考え方。この考え方の逆が『業を背負い、その背負った業に責任をもつ』ということなのです。

つまり…『なぜ?』ではなく、それらすべてに、

『今どうするか?』

『今何が出来るのか?』

『今何をするべきなのか?』と前向きに考えていく考え方なのです。

 過去の行為の反省や検証が必要ないと言っているのではありません。過去の行為を反省し考え検証することは大切なことです。しかし、得てしてその反省や考えや検証が現在や未来にいかされないのが現実ではないでしょうか。『業』を背負うとは、反省・考え・検証したことを『今』に『生かして』行くことなのです。

 個人の生活であれ、企業の営みであれ、役所の仕事であれ、政治であれ、業を背負い生きるという教え(考え方)は実はそこに必要不可欠なものなのです。

 福島の原発事故の、その後の東京電力や自治体、政府の対応の仕方が『業を背負い生きる』という考え方(教え)が無いと、こんなにもおそまつな対応になってしまうのだという、悲しいけれど顕著な例といえば理解しやすいのではないでしょうか。

 私たちは人間です。人間故に、迷い・間違い・悩むのです。幾度となく繰り返し。学び・教えられ・気づいているはずなのに。

そう…『わかっちゃいるけどやめられない』なのです。

 だからこそ、わかっちゃいるけどやめられない私たちは、そのわかっちゃいるけどやめられない行為(業)故に、それを背負い、その行為の積み重ね(宿業)に責任を持たなければならないのです。そうでなければ、生きている私たちの生活は、何でもアリのやったもん勝ち的な、無責任で身勝手な、かって気ままな、ほったらかしの生活になってしまいます。

 『業』とは『わざわい』のことではありません。言うなれば生きてきた自分自身の積み重ね、私そのもののなのです。

 私自身を背負い生きて行く。一つ一つ前を見ながら、悩み、傷つき、倒れ、愛し、慈しみ、傷つけ、憎み、呪い、さまざまな思いと行為の積み重ねから目を背けずに責任を持って生きて行く。

 その決意の表れが、冒頭の『わかっちゃいるけどやめられない』の言葉なのです。今の世の中に一番欠けていて、一番必要な『決意』ではないでしょうか…。

釋 完修
合掌
[2013/08]

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