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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十四
【 そこにあるもの 】

 『テレビなんかの食事の場面で家族揃って「いただきます」って手を合わせてるのを見るとゾッとするんだけど…なんか宗教がかってて大嫌い。気持ち悪くなる。そう思わない?』

ファミレスで偶然隣同士のボックス席になった二十代後半の若者の集団から聞こえて来た言葉であった。

『いただきます』を、そう感じるんだ…

手を合わす『合掌』を、そう感じるんだ…

そう思ったら悲しくなってきた。

 『いただきます』と『手を合わす(合掌)』この姿には深い想いがこめられています。(小話 いただきます通夜の焼香参照)。合掌は自分自身の謙虚な気持ちと、合掌する相手に対する真摯な礼を現す行為と言えます。

 538年(日本書紀によると552年)、百済の聖明王の使いで日本に訪れた使者が、欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりと言われています。合掌の行為も、その意味合いも同時にその頃より日本に伝わったと言っても良いでしょう。

 仏教伝来から現在までの約1500年。『手を合わせる』と云う行為は、その相手に対して礼節・感謝を現す行為として日本人の生活や習慣、心情や思いの中に深く溶け込んできました。それ故に、合掌は仏教の宗教的行為と云う枠を越えた日本人の所作と言って良いものにまで昇華されたものになっています。

 1500年の前から脈々と受け繋がれて来た日本の仏教は、いくつもの宗派に別れながら釈迦の教えを伝え続けています。その教えは、『限りある命を生きる』私たちが、『限りある命をどう生きていけばよいのか』という『生きる』ことそのものを説くものです。それ故に、仏教は日常的な生活の中に深く溶け込んで行きました。

 衣食住、文化、芸術、芸能、言語、しきたりや年間行事、日本人的な物事の考え方や倫理観等々…その由来が仏教であることにさえ気づかないほどの深さで日本と日本人に溶け込み根づきました。

 私たちが日常的に何気なく使っている言葉のほとんどは仏教用語が元になっていることをご存知ですか?

愛、アイウエオ、挨拶、愛敬・愛想、あばた、有り難い、一大事、有頂天大袈裟、過去・現在・未来葛藤、我慢、瓦、堪忍、看病、機嫌、喫茶、行儀、くしゃみ、愚痴、玄関、 炬燵、根性、金輪際、懺悔自覚、志願、師匠、自然、慈悲、娑婆、舎利、出世、精進、冗談、正念場、上品・下品、初心、食堂、世間殺生、接待、刹那、相続、退屈、醍醐味、大丈夫、達者、檀那、長者、頂戴通、塔、道場、投機、豆腐、灯明、道楽、内証、奈落、涅槃、鉢、皮肉、奉行、無事不思議、普請、不退転、蒲団、平常心、方便、迷惑、面目、融通…

ほんの一部をあげただけでこんなにもあるのです。言葉だけではありません。日本の習慣の中にも仏教に由来するものは少なくありません。

 仏教だけに限ったことではありません。日本人が古来より持っていた神々への畏怖の念・信仰(神道)も、同じように日本人の衣食住、文化、芸術等々、しきたりや年間行事等々に深く根付いていきました。

余談になりますが、今でこそ、神道と仏教は別々の宗教となっていますが平安時代には、神道も仏教もともに融合しあって共存していました。

 若い世代には、宗教と名の付くものに嫌悪感をいだく人たちも少なくありません。年配の世代では、私は無宗教ですと話す人たちが増えています。嫌悪感をいだく若い世代の人たちも、無宗教だと語る年配の人たちも、知っておいて欲しいのです。

 私たちが意識する、しないにかかわらず、私たちの生活の中に、すでに宗教(生きると云うことの中心を説く教え)が根付いていることを。

 争い事が絶えなかった時代、権力抗争や名声を得る争いに明け暮れ、傷つけ合いを繰り返し、国の体をつくれずにいた時代。その時代に『和をもって尊し』とする仏教の教えによって人々の目を覚まさせようとした聖徳太子の『こころ』を。優しさと思いやりを中心とした国を作り上げようとした『精神』を…。

 知っておいてほしいのです。

海や山や川や空、畑や田の大地、そこから与えられる数々の恵み。その恵みに対する感謝。と同時に、海や山や川や空や大地から与えられる脅威(自然現象)に対する恐れ。感謝と恐れの畏怖の念。

それを表すために行われていた数々の祭事を。

 私たちが今も執り行っている年中行事や習慣・慣習、日本人としてのしきたりの中に、深く深く、この二つの精神が宿っていることを。そしてそれらに囲まれて生きていることを。

 せっかくの、そこにある深い意味が、知らないということで違う意味にとられ、さらにいみ嫌われていく。

そのことが悲しいのです。そのことが寂しいのです。

当然、それらのことを伝えきれていない私たち、先に生まれた大人の責任は免れません。人として年配者として僧侶として…

だからこそ、一人でも多くの人に伝えたいのです。

どうぞ調べてみてください。

どうぞ知ろうとしてみてください。

様々な習慣や行事のその起源を。

そこにある、それを執り行う意味を。

そうしたならば、前述した、ファミレスの若者の言葉も、もっと別の言葉になったはずですから。きっと、温かさのこもった言葉になったはずですから。

釋 完修
合掌
[2013/09]

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