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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十五
【 親(おや) 】

 あるお寺に定例の法話会に出掛けた時のことです。法話が終わって控え室でお茶を頂いていると一人の男性が訪ねて来ました。三十四歳、なかなかのイケメンの男性でした。結婚していて二歳の男の子がいるそうです。

 その男性いわく。

 私は子供の頃、親に捨てられて施設で育ちました。小学生のときに、里親になってくれる人が現れて、あとはその人たちと過ごしました。本当の親が誰なのか、顔も知りません。だからなのか、未だに親の愛情というものが分かりません。愛されるということがよくわからないのです。

親になっていながら…。

親の愛情とはどんなものなのでしょうか…

親として自分の子供をどう愛していったらよいのでしょうか…。

男性の目は、真剣でした。

 私事になりますが、そう言って、その男性に話しかけました。

以下は、その男性と私との会話です。

『私には母親が三人います。そして父親が二人』私の言葉に、その男性はビックリした様子だった。

私も親に捨てられています。小学校三年の時に私の両親は離婚しました。

私の小さかった頃からいろいろあったらしく、幼心に、母親が泣いている姿、そして、家を出るときは一緒に出ようねと度々言われたのを覚えています。

ただ、私が気がついた時、母親は六歳下の弟を連れて家を出ていました。

子供心に『置いていかれた』『捨てられた』と感じました。

 物事が少しわかるような歳になって、なるほど寺の跡取りである長男は、ガンとして父親が離さなかったんだろう事は想像できました。けれど当時の捨てられた感は相当なものでした。

 そのあとは、明治生まれの祖母が私を育ててくれました。行儀や生活は祖母、そして宿題や勉強は祖母の娘である叔母がみてくれました。父親とは、母親の離婚の時以来、しっくりいかなくなり、今でも何か確執があり上手くいっていません。その部分は叔母の旦那さん、叔父さんが補ってくれました。

 嫌な事や、寂しいこともたくさんありました。けれど、友達のお母さんやお父さん、近所のオヤジさんなど、たくさんの人の世話になって今があります。

その男性は黙って聞いていました。

考えてみてください。そう男性に言って三つの事を提示しました。

どうぞ、この小話を読んでいるみなさんも考えてみてください。

・『本当の親』ってなんでしょう?

・『親って何』だとおもいますか?

・『何をもって親』というのでしょう?

 確かにこの娑婆に産んでもらったということでは、産みの親が本当の親といえるでしょう。

でもそれだけでは、生物学的に親であって、父親・母親ではないと思うのです。

産んだ子供を育てて、初めて父親・母親になっていくのだと思うのです。

 赤ん坊に乳をのませ、熱がでたといってあわて、歩き出したら怪我をしないかと心配し、学校へいくようになったらなったで、自分では解けもしない数学の成績や、自分ではしゃべれもしない英語の成績などに一喜一憂し、愚かなほど我が子にたいしてバカになっていく。子供と一緒に怒ったり泣いたり、よろこんだりしながら、産んだだけの親は、父親・母親になっていくのだと思うのです。

 親には、誰でもなれます。子供を産めば親です。でも、父親・母親は、育てて初めて父親・母親になっていくのだと思うのです。

あなたなには、たくさんの親がいるじゃないですか…

施設の職員の人たち。あなたを親身に思って接してくれた人たち。あなたを引き取って育ててくれた両親。あなたの奥さんの両親。

思い返してみれば、思いあたる人がいませんか?

そのひとたちは、みんなあなたの親じゃないのでしょうか?

 産んだ産まない。本当・嘘。そんなことに関係なく、自分を『育ててくれた人』そんな人たちは、みんな自分にとって『親』といえるのじゃないでしょうか。

そして、そこに『愛』はあると思うのです。

愛されてないなんて、とんでもない。あなたのまわりは愛でいっぱいですよ。

私が最初に、私には母親が三人、父親が二人いると言ったのはこう言う意味です。

私は、自分のことを贅沢だと思ってます。

母親が三人、父親が二人もいる人は、そうそう居ないだろうから。

だからあなたも、まわりを見てみてください。今まで歩いてきた人生を、そこに『親』は必ずいるはずだと思いますから。

 それと、今、産まれて生きてることが、産みの親に捨てられても、実は愛されていたという証明なんだと思いませか?だって少なくとも、十月十日は、お腹の中で愛されたはずなんだから。でなければ産まれてこれなかったはずじゃないですか。産まれて来ているその事実が、産みの親に愛されていた証明だと私は思っているんですがね…

 私自身に言っている言葉でもあった。

この話に、何かを感じてくれればありがたかった。

目に涙をためて『ありがとうございました』と告げて男性は部屋を後にした。

 芸の世界では、自分を叱咤激励し導き育ててくれる人を、オヤジと呼んだり、お母さんと呼んだりする。

職人の世界でも、技を伝え育ててくれる人を親父さんと呼ぶ。

一般の世界でも、尊敬し教えをこう人のことを父親や母親のように呼び、思うことは珍しくないことである。

 『育てて』『育てられ』て『親』なのである。

 『手をさしのべ導く』ことが『親』なのである。

そしてその中には『愛』は必ず潜んでいる。

『愛(あい)』という漢字の成り立ちをご存知だろうか?

『愛』とは、

『夊(すい)』…足がもつれて立つことが出来ない。(という意味の象形文字)

『心』に『冖(べき)』フタをして落ち込み、闇から抜け出せない。(という意味の象形文字)

そんな人に『爪(つめかんむり)』手をさしのべる(という意味の象形文字)

というものなのです。

ならば、なんと自分のまわりにたくさんいの『親』のいることでしょう。

なんとたくさんの『愛』に囲まれていることでしょう。

それは現実に生きてる人に限ったことではないはずです。

亡くなった人からでも、私たちは導き育てられるのだから。

 私たちは、たくさんの親に育てられて生きています。と同時に私たち自身も、この親になっていかねばなりません。

人を導き育てる親に…

そして、そこに『愛』を持って…。

釋 完修
合掌
[2013/10]

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