其の八十六
【 情が導くもの 】
『四十九日でお父さんのお骨、お墓に入れたら薄情なんかね…』目にいっぱいの涙を溜めながら、その奥さんは言った。切実に思い悩んだ困惑に満ちた表情だった。
30年近く連れ添った夫婦であった。脳梗塞で倒れた旦那さんを三年看病しての別れだった。献身的な看病だった。中の良い夫婦だっただけに、奥さんの悲しみは見ていられないほどだった。その奥さんの言葉である。その言葉は、夫の兄に向けられていた。次に奥さんは私の方に向き直り『高科さん、どう思う?』と言った。
事の顛末(てんまつ)はこうである…
三七日のお参りであった。亡くなった夫の兄と妹もお参りに来ていた。そこでの出来事であった。四十九日法要の日程の打ち合わせを始めた時だった。自宅で法要を済ませ、お墓に納骨し、それからみんなで会食をする、そう確認が済んだとき、夫の兄が言った『四十九日で早(はや)納骨するがか?寂しないがか?わしゃ二年前にかぁちゃん(自分の奥さんのこと)亡くしたけど、一年間、家に置いて供養したわ。薄情なヤツやなぁ!!』と話した。冒頭の奥さんの言葉は夫の兄のこの言葉に対する返事であった。
『どう思う?』と問われて答えないわけにはいかない。という前に、このお兄さんの言葉には正直悲しいものを感じた。どう思うと聞かれなくても言葉を挟むつもりでいた。
お兄さん…そう呼び掛けて、『一年間自宅でお骨をみた、だから私は情に厚い、奥さんは四十九日で納骨する、だから情に薄いとおっしゃるんですね』と確認した。答えは『そうだ』であった。
なら、お聞きします。そう言って質問してみた。
『私のお参りにいっているお宅で娘さんのお骨を三年間納骨出来ずに家で見ているお父さんがいます。20歳で自分で命を絶った娘さんのお骨です。もう一人、このお母さんは、17年間18歳で亡くなった息子さんのお骨を手放せないで自宅でみています。このお二人からすれば、お兄さんも薄情だということになってしまいますけど、どう思われますか?』と。
ムッとした表情で答えようとしない兄の姿があった。
言葉を続けた…
『そんな事を言われても!って思われたでしょ。困ってしまいますよね、家で見ていた年月で情に厚い薄い、情がある、無いって言われても。でも今、私がお兄さんに言った言葉は、お兄さんが奥さんに言った言葉と、まったく同じですよ。どう思われますか?』
お兄さんの答えは…
『そんな事を言うとるんじゃないわい。すぐ納骨するのが薄情やと言うとるんや。わしゃ一年みたわ。花もお供えも、お経もあげて、すぐ(納骨)は可哀想やからな』だった。
問いと答え、話が噛み合わない。噛み合わない事で確認できた。やはりそうだった。お兄さんの奥さんへの話の仕方で気づいてはいたが。このお兄さんが言いたいのは、一年みたという『自慢』である。
このままでは、このお兄さん、四十九日の法要の席でもみんなの前で奥さんに向かって『薄情』と言いそうだった。
言い方を変えてみた。
『七日参りを済ませて四十九日目に四十九日法要を執り行って納骨。浄土真宗の宗派では、そうなっています。決して薄情なわけではありません。そのいわれは今お話するのははぶきますけど、愛する人を喪(うしな)った悲しみは十分にわかります。お兄さんも辛くて悲しかったに違いない。奥さんも当然悲しくて辛いはずです。それを踏まえた上で敢えて言わせてもらうなら、お兄さんは、なぜ一年みたあとで納骨されたんですか?お兄さん自身が言うよに可哀想で寂しいのなら、なぜずっと家に置いておかなかったんですか?俺が死ぬまで家に置いとくから、俺が死んだら一緒に墓に入れてくれ。そうしても良かったのに、なぜそうしなかったんですか?』
その返事は『そんなもん、一生みれるかいや。一年間十分供養したわ』だった。
その返事を受けて出来るだけ静かに話した。
『そうですよね。お骨なんですから。物じゃないんだから。みていこうと思えば大変だと思います。だからこそ人は昔からお墓というお骨を『丁寧』に『納める場所』を作ったんです。そこに、仏教では四十九日目、神道では確か五十日目でしたか…その日を定めて納骨するんです。きつい言い方をすれば、何年もたって邪魔だと思わない前にね』
『邪魔と言う言い方は酷い言い方だと思います、自分でも。でも、ある意味一生みれないってことはそういうことでしょう。邪魔とまでは思わないとしても、自分の手に余ってしまうものなんです。それに、そんなことは全部無しにしても、ご主人を亡くして、悲しんでいる方に、わしは一年みた、四十九日で納骨は薄情やって言うそのことが、いい大人がそれもまして自分の弟さんの奥さんに、今、言うことでしょうか。あなたはあなたで一年みた。それはそれでいいです。でもそれを他の人にまで強要し、そうでなければ薄情やとなじるのは、兄のすることではないと思いますよ』
『仏教は癒しである』確かに仏教は人としての愛や思いやりを説く。けれど『仏教は怖いものである』という側面も持っている。人の愚かさも説くのである。人間の持つ情の厚い、薄い、さらには人間の持つ傲慢と謙虚さも説くのである。情の厚さゆえに行ったことが今度は自分の情の薄さを導きだす。情の厚さが自分の傲慢さを生む、逆に情の薄さが自分の謙虚さを生むという一見矛盾した心の動きさえ、見透かして説いている。特に浄土真宗はそのことに長けている教えと言っていいかもしれない。
前述のお話も、そのことをよく表しているのではないだろうか…
・可哀想で寂しくて四十九日で納骨出来ない(情の厚さ)
↓
・一年間みたから納骨した。一生はみれないから(情の薄さ)
↓
・俺は一年間もみた偉いだろ(傲慢)
↓
・だからお前も同じようにしろと強要する(情の薄さ、傲慢)
という図式になろうか。
同じような話は山の様にある。ある意味毎日がこんな話に…体験にまみれているのが僧侶の日常といえる。何年かに一度は必ず同じような事がある。斎場(火葬場)でお骨を拾う際、可哀想だと言って全部拾って帰った家族が、いざ納骨の段取りをするさいにお骨の取り扱いに困惑し必ず相談に来るのである。
金沢では…火葬されたお骨は、直径20センチほどの素焼きの瓶(かめ)に、その瓶に入る分だけ収骨する。お墓にはその瓶を納骨するのである。当然…全部拾って来たお骨は余ってしまうことになる。この余ったお骨をどうすればいいのかと必ず相談されるのである。いつも最初に言うのは、可哀想だからと全部拾ってきたんだから、全部お墓に入れればいいじゃないですか。お墓の中に撒けばいいんですよと言うことに決めている(事実能登方面ではお骨はお墓の中に撒くのが通常である)。本当にそう思うから。でも相談にくる全ての人が、全く同じ事を口にするのである。
『そんなことをして何か悪い事が起こらんかね?』と。
情の厚さが情の薄さを導きだした分かりやすい例といえる。
得てして私たちは『情』に振り回され『情ある』故に傲慢になり冷たくなる。しかし、情ある故に謙虚にも暖かくもなる。
大切なのは『その情』が、自分の独り善がりな、自分勝手な情になっていないか、自分自身をきちんと見れる目である。その目を絶えず持っていなければ私たちは簡単に傲慢で冷たい人間になってしまうのである。それも自分がなにひとつ間違ってはいないという恐ろしい場所に立っての傲慢と冷徹さをもった人間に…。
合掌
[2013/11]
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