BONZE
bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の八十七
【 自分をみる-俯瞰(ふかん)の目 】

 スーパーでの買い物をすませて、家路につこうと駐車場に停めてある車に乗り込んだ。

エンジンをかけ、さぁ出発とハンドルをにぎり、アクセルを踏もうとしたそのとき…

なぜか?前方から車が、それもバックで突進してくるではないか!!あれよあれよという間に、その前方の車は自分の車に衝突してしまった。

私の友人の話である。

『えーっ!!』と驚く友人。その友人を、ぶつけてきた車を運転していた男性の言葉が、さらに驚かせた。

その六十代半ばほどの男性いわく…

『お前、なんで、そんなとこに車停めとるんじゃ!』であった。

おいおい、駐車場の白い枠の中にちゃんと停めてある車に、バックで衝突しといてその言葉はないだろう…

『いやいや、あんたが、突っ込んできたんだろう。後ろを見ずにバックしてきたのはあんたやよ』

そう言う友人に、その男性はたたみかけるようにいい放った…

『なにおぅー!!わしゃ〇〇会社の専務やった男やぞ!!』

その言葉に友人は、呆れはてるやら、バカらしいやら、すぐ警察に電話をすることにしたそうである。

お話をもう一つ。

 その町会は町会長の人柄もあり、役員一同みな協力的だった。行事や会報、地域活動やゴミ当番など、町会の各世帯に対する呼びかけもマメに行っていた。そのかいもあり、各世帯の町会の一員であるという意識は高かった。その町会の総会での話である。

一人の六十代半ば過ぎの男性が手を上げた…。

総会のテーマの一つゴミ当番の順番に一言あるらしかった。

『私は〇〇銀行の副頭取をしておりました〇〇ですが…』冒頭の挨拶以下延々と持論が述べられた。

要約すると…どうヒイキ目に聞いても、自分は当番に出たくないと言う意見にしか聞こえなかったと言う。元〇〇銀行の副頭取だからそんなことは出来ないと…。

 前述の駐車場の男性も、総会での男性も、共通しているのは『元〇〇の〇〇をしていた私』と言う自己誇示、共に会社で高い地位にいた私であるという自己誇示である。

そこには、

事故を起こした加害者である私。

総会で発言するイチ町会員の私。

という意識は微塵もない。

 定年前の自分がしていた仕事を誇ることはイケないことではない。仕事を通して様々な事を学び、身につけ、経験してきたことは、むしろ誇って良いことである。しかし、それと事故を起こした私、総会で発言する私とは関係のない話しである。

まして、そこに定年前の役職の肩書きなど必要はない。必要なのは、車をぶつけてごめんなさいという相手に対して謝罪する『私』、町会の構成員としてイチ意見を述べる『私』という意識である。

 社長であれ、部長であれ、課長であれ。店長であれ、支店長であれ。校長であれ、教頭であれ。議員だろうが、市長だろうが、それは会社や組織、仕事をするその中での地位や肩書きにすぎない。社会全体を構成する世の中においては皆『人間』として上も下もない。

 ディズニーランドでは、社長だろうが、課長だろうが、並ばなければアトラクションに乗ることはできない。

 バスにしても、タクシーにしても、その順番はまもらなければならない。それを破れば当然顰蹙(ひんしゅく)をかう。

 買い物でも、百円の物は百円だし、1万円の物は1万円である。地位や肩書きによって値段がかわるわけではないし、地位や肩書きで余分に代金を払ってくる人もいない。世の中、日常生活の中では、地位や肩書きなど本当はなんの役にもたたないのである。

 まして定年前の地位や肩書きなど、ひけらかしたところで、何の役にもたちはしない。もし世の中、日常生活の中で役に立つものがあるとするなら、それはただひとつ『人間』としての『度量』、もしくは『器量』それだけである。

 男性でも女性でも、会社であれ自宅であれ、仕事をする(働く)ということは、その事を通して人格が形成されていく。仕事を通して人間的に成長していくことは、今も昔も変わらないことである。

 ただ…気をつけていなければならないのは、特に会社などで肩書きが上の人ほど、あたかもその地位や肩書きが自分自身そのもの…自分という人間そのものだと思いこんでしまうことにある。

ここに興味深い話がある。長年国会議員の秘書をしていた人が語った話である。

 国会議員は、議員としての移動でJRを使用するさい、ほぼ全員がグリーン車を使う。当選して一年目…無料でグリーン車を使うことに抵抗を感じると訴える。申し訳ないという気持ちである。

 その気持ちが二年がすぎる頃には、移動に無料のグリーン車を使うのに何の抵抗もなくなってしまう。無料であることなど気にならなくなる。議員だからいいんだと。

 そして恐ろしいことに三年四年と月日がすぎると、切符はグリーン車を絶対とるようにと自分で言うようなる。なぜ自由席や指定席に乗らなくちゃならない。グリーン車が当然だと。

 遠慮が普通になり、普通が当然に変わって行く。やがて当然は、当たり前という傲慢さに変わって行くと言うのである。

 議員として与えられている特例が、年月がたつうちに、いつの間にか、議員をしている『私個人』の特例だと思いこんで(勘違い)しまう。私個人の力(能力)だと信じこんでしまうのである。そして、その思い込みは、その仕事を辞めてもなくならない。その特例を使っていた時のままの気持ちでいるのである。

 特例は議員という職種についていたものであって、私個人についていたものではないのに。仕事を辞めたあとでも、その仕事で就いていた役職や肩書きによって行われていた行為、行っていた行為、その意識だけが残る。その意識が、前述した、車をぶつけた男性や総会で一言物申したような男性を、人間を作ってしまうのである。

『元凶』はここにある。

現役でも退職しても、私たちは(当然私も含めて)、この『元凶』に簡単に陥ってしまう。

気をつけていなければ…。

 俯瞰(ふかん)と言う言葉がある。カメラのアングルだと思って頂ければ分かりやすいと思う。

真っ正面から見るアングルを正視(せいし)。下から仰ぎ見るアングルを仰望(ぎょうぼう)と言う。

俯瞰とは、上から見るアングルのことである。映画のワンシーンを見るように自分自身を上から見るのである。自分を他人のように。

私たちは、この俯瞰の目を意識することで、『元凶』に陥ることを防ぐ事が出来る。

ここに檀家さんとの実例がある…

 そのお姑さんが私にこう言うのである。

『ご坊さん。うちの嫁は根性悪るて、私が自分の部屋に行ってから、息子と二人でビール飲んどるがやぞ。こっそり。私に飲むか?とも言わんと。私かて飲みたいわね。一言ゆうたらどうやいね』

とりあえず…そうやねぇと合図ちを打ったあとに聞いてみた。

『ところで、部屋に帰ったあとなんに、ビール隠れて飲んでるのに、なんで婆ちゃんそれ知っとるがいね?』

お姑さんの答えは

『なに言うとるがいね、そんなもん、そーっと居間覗いとったら分かるわいね』であった。

静かに言ってみた。

『なぁ婆ちゃん。一緒にビール飲もうって誘わん嫁さんも悪いかもしれんけど…どや、想像してみい、そーっと夜中…夫婦二人でいる居間を覗いてる自分の姿を…浅ましい姿やと思わんけ。みっともない姿やぞ』

お姑さんの顔色が変わった。自分の姿に気がついたのだろう。

『お嫁さんの根性を悪く言う前に、覗くのやめまっし。で、自分が飲みたかったら飲みたい、食べたいものがあったら食べたいって言うまっし。まずそこからやろ』

ばつが悪るそうにしているお姑さんの姿がそこにあった。

 諺(ことわざ)に

『人の振り見て我が振り直せ』(他人の行動を見て良いところは見習い悪いところは改めよ)というものがあるが、

『俯瞰の目』とは言うなれば…

『自分の振りみて我が振り直せ』と言える。

 どんなに傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で慇懃無礼(いんぎんぶれい)な人でも、他人の傍若無人・慇懃無礼は批判する。

どんなに内気な人でも、他人が他の人にしている親切や思いやりには心が和む。

良い事も、悪い事も、優しさも、憎しみも、親切も、意地悪も、他人の行為ならよく見える。

ならば自分を自分で見る『俯瞰の目』は、私を人間として一つ一つ成長させてくれる大切な『目(見方・考え方)』だと言える。

 俯瞰で自分を見るようにしてみませんか?

嘘ではありません、本当に、いろいろなものが、見えるようになりますから。そして見えるようになったいろいろなものは、必ず、私たちを人として魅力のある人間に導いてくれるはずですから…

釋 完修
合掌
[2013/12]

小話のご意見・ご感想はこちらまでメールしてください。


↑TOP