其の九十
【 舞台 】
私たちはみんな、誰一人例外なく、母親から産まれて来ます。
産まれたとたん、これもまた誰一人例外なく『子(こ)』という衣(立場)をまといます。そしてその『子』という衣をまとったまま成長して行きます。
年頃になり、好きな人ができ交際が始まれば、今度は『恋人』という衣(ころも)を『子』の上に着ます。
結婚すれば、その上に『夫』『妻』という衣をまといます。
子供が産まれれば『父親』『母親』という衣を…
その子供が結婚すれば『姑』という衣を…
孫が産まれれば『おじいちゃん』『おばあちゃん』という衣を…
一枚一枚、上に上にと、まとって行きます。
そして、そのまとった衣は、一度着てしまえば脱ぐことのできない恐ろしい衣なのです。
その脱ぐことの出来ない恐ろしい衣をまとい、あたかもその衣が舞台衣装であるかのように、私たちは自分の人生という舞台に立たなければいけません。
『子』という役を…
『恋人』という役を…
『夫』『妻』という役を…
『父親』『母親』を…
『姑』を…
『おじいちゃん』の役を…
『おばあちゃん』の役を…
そのすべてを一人でこなしていかなければなりません。そればかりではありません。その人生という舞台の一幕一幕を命懸けで演じて(責任を果たす。責任を背負う)いかなければならないのです。
さらに、恐ろしいことに、その役からも、その舞台からも、決して降りることは出来ないのです。たとえどんなに、辛いことがあっても、苦しくても悲しくても、面倒でも、邪魔でも…
なぜなら、それは自分自身の人生だから。
そのことを、私たちは忘れているのではないでしょうか。
夏になると決まって、新聞に悲しい記事が載ります。毎年毎年その悲しい記事はなくなりません。炎天下の駐車場。車内に赤ちゃんや幼い子供を残したままパチンコをしていて、赤ちゃんや幼い子供らが亡くなる記事です。パチンコをすることが悪いわけではありません。
ただ、降りることの出来ない『父親』『母親』という役と舞台に、立っているということを忘れているのではないでしょうか。
今自分がまず第一に優先して行わなければならない『親』としての『役』を…。
その逆もあります。
離れて暮らす母親が、具合が悪くなり入院しても、その様子すら見に来ない『子』。痴呆を発症した親を施設に預け、一度預けたなら、どうせ会いにいっても分からないんだからと、一度も会いに来ない『子』。そんな『子』の話をよく聞きます。
これも降りることの出来ない『子』という『役』についていることを忘れているのではないでしょいか。
こんなお話があります。
ハンデを持つ子供さんの両親は必ず言います。この子と一緒に一回は死のうと思ったと。そして思いとどまった両親は必ずこう言います。『この子の親は私しか居ない』のだと。『私が親なのだ』と。
ここに、誰も代わることの出来ない『私』、自分の人生を生きている『私』という自覚があります。
浄土真宗には…
『かわる人あることなし』と言う言葉があります。
『かわる人なし』というのではないのです。
『かわる人なし』と言うのは、それは他にまだ代わる人がいると言うことです。たまたま、代わる人が今いないということです。
『かわる人』
『あること』
『なし』と言うのは、今だけでなく、後にも先にも金輪際代わる人が誰もいないという厳しい言葉です。
浄土真宗(仏教)は、優しさや思いやりを説きます。慈しみを説きます。と、同時に『厳しさ』も説きます。私たちが、目を背け、わざと気づかないふりをしている現実を、しっかりと見つめ背負えと説きます。
私たちは、今一度、この言葉『かわる人あることなし』を胸に刻みこまなければならないのではないでしょうか。
そのことが、『生きている』ということで出会うさまざまな出来事にキチンと対処していける、実は一番の近道だと思うのです。
合掌
[2014/05]
小話のご意見・ご感想はこちらまでメールしてください。