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bodhimandala

阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の九十一
【 続・自分をみる-他力の自覚 】

 俯瞰の目は、私たちに、私たち人間の真の姿を見せてくれます。自分自身の真の姿を。

どれだけ、たった一人で(世間を)生きてきたと自負する人でも。

どれだけ誰の世話にもならずに生きてきたと豪語する人でも。

どれだけ誰にも頼らずに生きてきたと思っている人でも。

砂漠の真ん中に、食料となる生き物の一匹もいない、そして雨すらふらない、そんな砂漠の真ん中に置き去りにされたなら、一週間と生きていることは出来ないはずです。

 たった一人で、誰の世話にもならず、誰も頼らず、さまざまな自然の恩恵なしには、人は生きて行くことは不可能なのです。その事を私たち人間は簡単に忘れて生活しています。

 具体的な例をいうなら、

・誰の世話にもならずと言っても…

毎日食べるお米は農家の人が作ってくれたお米です。魚屋さんで売っている魚は漁師の人が釣って来た魚です。あらゆる食べ物は誰かが作ったり取って来たりしたものです。

・誰も頼らずと言っても…電気や水道、道路や建物、それらは誰かが、一生懸命に働いているから供給されたり、そこにあり続けられるものです。

・さまざまな自然の恩恵なしにとは…

雨が降らなければ、飲み水にさえ困り、作物も育ちません。日の光がなければ、これもまた何も育て作ることは出来ません。魚を釣る漁師でも、そこに魚が居るから釣れるのです。私たちが呼吸をしている空気は、アマゾンのたくさんの木々たちが今も作り出しているものです。

どうでしょう…具体的に例を上げだせばきりがないほど書き綴ることが出来ます。

 有名なお話があります。「ハニービスケット」の作り方と云う絵本の中に書かれているお話です。

幼い男の子ベンがお祖母ちゃんにたずねます。

「ハニービスケットを作るには、なにがいるの?」

するとお祖母ちゃんは、ベンにこう答えます。

「そうね、まず雌牛(めうし)を1頭つれてこないとね」

台所でハニービスケットを作りながら、ベンはお祖母ちゃんにミルクからバターができることや、お砂糖はサトウキビから作るのだということなどを聞きながらビスケットを作っていきます。

 ビスケットの材料、牛乳や小麦、それらの元は牛の乳や小麦粉です。それを手にいれるには乳を出す牛や成長した小麦がいります。そのためには子牛が乳をだすようになるまで成長することや、小麦が十分に成育して穀物として製品になっていなければなりません。

そうなるまでに、どれだけの人の手が必要だったでしょうか?

どれだけの労力がかかったでしょうか?

考えてみれば、人の手や労力だけでなく、とどのつまり、牛や小麦の種が、この世に存在しなければ初めからビスケットなど作れないのです。

 それはなにも牛乳や小麦に限ったことではありません。この世のすべてのものがそうなのです。

 お祖母さんのベンへの言葉は、世の中の繋がり、決して一人だけで物事が成り立っているのではないことを教えるためのものなのです。

 この『繋がり』を、仏教(特に浄土真宗)は『縁』という言葉を使って表します。この『縁』無しに私たちは一秒も生きてはいられないのです。『生きている』それそのこと事態が、本人が意識するしないに関わらず縁と繋がっているというのが現実です。たとえそれをどれだけ否定しても。

 この繋がりとしての縁を心底実感し、日々感じて生きたとき、そこに新しい世界が開かれます。

 その世界こそが浄土真宗でいうところの他力本願なのです。

 他力本願…広く一般的に認知されている意味は、他人の力によって物事を成すこととなっています。

 これは浄土真宗の仏教用語としての本来の意味ではありません。字ヅラから読み取ったそのままの感覚で広く間違って訳され、それがあたかも本来の意味のように世間でつかわれ定着してしまったものなのです。辞書でさえ、この勘違いされてしまった意味を載せています。

 ゆえに、今、ここで言うところの、新しく開かれてくる他力本願の世界という他力本願は、一般的に言われる他力本願ではなく、浄土真宗の仏教用語としての他力本願と考えてほしいのです。

 浄土真宗の仏教用語としての他力本願…

これは、自力の対語ではありません。自分の力『自力』、他人の力『他力』、確かに自力と他力は対語になります。しかし、先に書いたようにこの他力は他人の力と言う意味ではありません。

言うならば自力は他力に含まれるといえます。『えっ?』と言われるでしょう。

ですがそうなのです。自分の力は、他力(すでに用意されてあった世界)に含まれると…

 ここで、先に書いたハニービスケットのお話を思い出してみてください。ビスケットの材料となる牛乳や小麦粉は、すでに牛と小麦としてこの世界にあったものです。私たち人間が無から産み出したものではありません。そして、私たち自身…産まれた時すでに生物として生きて行ける環境の中に産まれてきています。何もない宇宙空間に産まれてきているわけではないはずです。生きて行ける環境の中に産まれているのです。大地も空気も光も…すでに用意されている…そこに産まれてきているのです。

すでに用意されている世界それを他力と呼ぶのです。私たちは他力の世界を自力で生きているのです。

 俯瞰の目から導き出される自らの姿。

その姿から見えてくる他力という自覚。

そしてその自覚から感じられるミクロではなくマクロな世界。今風に言うならばグローバルな世界。他力の自覚はある意味、人種も国境も思想さえも…その垣根(かきね)をとりはらうことのできる自覚だと言えると私は感じています。

この小話を読んでいる皆さん。一度ゆっくりと自分を見つめてみませんか?

自分のまわりを見渡してみませんか?

そこに他力は…

そこに他力の世界は…

そこに繋がりながら支え合いながら…生きている世界があるはずです。

その世界が見えたなら、きっと人はより優しく思いやりのある、素敵な人になっていけるはずだから…

釋 完修
合掌
[2014/06]

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