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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の九十二
【 後悔 】

 過ちと後悔。失敗と反省。五十数年の人生は、それらにまみれたものだった。もちろん誰のことでもない私自身の事である。

人を傷つけ…

悲しませ…

泣かせ…

自分も傷つき…

悲しみ…

泣く…

人とのさまざまな出会いや別れ、その中に喜びと愛と切なさと悲しみと辛さを、そして憎しみも恨みも呪いも与え、与えられてきた。

後悔のないように生きる。悔いを残さぬように生きる。一回きりの人生だから。しかし、それは、

あるときは身勝手となり、あるときは傲慢となる。

あるときは過ちを産み、

あるときは失敗し

人も自分も傷つける。

考えてみれば人は『後悔』と言う言葉無しには生きられないのではないだろうか。生きているということは、後悔の積み重ねと言えるのではないだろか。

 仏教・浄土真宗は、この『後悔』の中に…人間としての『悲しみ』を見ろと説きます。そこに、人の『愚かさ』を見ろと説きます。『この悲しくて愚かな生き物…人間よ』と。

 この『悲しくて愚かな生き物・人間』が『私自身である』と心底思えて、初めて、人は人を尊重し、わかり合い、許しあい、ともに業を背負って生きる者同士として認め合って生きていけるのではないでしょうか。

 ここでいう『愚かさ』とは…劣っているとか、バカだとか、そう言う意味ではありません。ここで言う『愚か』とは、反省しても反省しても、学んでも学んでも、幾度なく繰り返されていく人間故の過ちと間違い。

たくさんの命の上に生きている私(命を食らって命を繋ぐ)

たくさんの知恵の上に生きている私(たくさんの人たちの技術や学問、研究や働きの積み重ね)

たくさんの人に支えられて生きている私。

そのことに気づいても気づいても、忘れてしまう私たち。そんなどうしょうもない自分自身への自覚からくる悲しい告白としての『愚かさ』の事です。

 『後悔』『愚かさの自覚』それは、ともすれば人を暗く深い闇に突き落としてしまいます。自覚すればするほど這い上がることの出来ないほどの深い闇に…。けれど考えてみてください。闇は闇だけでは存在出来ないことを。光がなければ闇も存在しないことを。光がなければ影(闇)は出来ません。光が強ければ強いほど影は濃くなります。ならば闇深ければ深いほど光は強いのではないでしょうか。

 では『光』とは何でしょう。それは後悔からくる反省。そして反省からくる成長、人として人間として、男として女として、父として母として、夫として妻として等々…ものの見方や考え方、度量や力量、それらすべてへの糧、肥やし、肥料、大きく深く成長していけるという光です。

 故に…

『後悔』と書いて

『前進』と読む。

『変わる』と読む。

『成長』と読む。

人は後悔することによって人として深く味のある素敵な人間へと成長して行けるのだと。それが後悔するということの本当の意味なのではないでしょうか。

釋 完修
合掌
[2014/09]

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