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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の九十三
【 礼 】

 自動ドアの開く音がした。静かな機械音。そこには二十歳前後の男性が立っていた。無言のまま、その男性は店内に入って来た。まるで自分の家のように当たり前の素振りで店の奥にあるパソコンの前に座った。上着のポケットから、小さなカードを取り出してパソコンにセットする。そのまましばらくパソコンの画面を眺めていた。画面の操作手順で戸惑っているように見受けられた。男性は無言のまま、私の向かい側に座っている店主の方を見た。奇妙な間を置いて店主のオヤジさんが言葉を発した。『どういたしました?』と…

 このお店は個人経営のカメラ店。写真屋さんである。店内は大規模量販店のような広さがあるわけではない。ごく一般的な、普通の町にあるこじんまりとしたお店である。自動ドアの入り口と私と店主のオヤジさんが座っていた場所とは、目と鼻の先の距離である。なおかつ…奥のパソコンの場所までは、私たちの目の前を通り過ぎなけれな行けない作りになっている。

 にもかかわらず…

店主のオヤジさんが『どういたしましたか?』と聞くまで、この男性は一言の言葉も発しなかったのある。

『こんにちわ』も言わず店内に入り…

店主のいらっしゃいませの言葉にも答えず…

無言のまま、目的も言わず来店の意味も告げず、デジタルのカードから写真をプリントアウト出来るパソコンにさっさと進み…

更に無言のまま勝手に操作し始め…

それが上手く出来ないと、今度は無言のまま店主の方を見る…

私と店主のオヤジさん。思わず顔を見合せた。

そしてため息が…

『ふぅーー』と…

 友達に、お店を経営している人間が何人かいる。同じような話を聞いたことがある。

 ひとつは…

10時開店のメガネ屋さん。店主は9時すぎに店に来て開店の準備を始める。店内の照明はついているものの、シャッターは半開き、誰が見ても開店前の準備中だということは一目瞭然である。その状態で、一人の七十前後の男性が無言のまま店内に入って来て、いきなり一言。

『これ壊れたがや。直してくれ』と…

友人の店主いわく。修理もしてるから、直せと言われれば直す。でも、その前に一言無いかと…。

開店前の半開きのシャッターをくぐって入って来てるのだから、せめて一言、『すみません』とか『開店前だけど良いですか?』とかないんかいと…。

いきなりそれはないやろうと語っていた。

この話にはまだ続きがあって、その男性が提示した壊れたメガネは、その友人の店で買った物ではなかったという笑えない落ちがある。ならばよけいに、『申し訳ないのですが、ここで買ったメガネではないけれど、壊れてしまったので直して貰えますか』ぐらいは一言、言わなければならないのではないだろうか?

いい大人なのだから。

そう友人と二人で話したことがある。

 二つ目は

アンティークの古い洋服や着物、小物を売っている、こじんまりとした町のなかの小さなお店。お店の営業時間中、六十すぎから七十前ぐらいの女性が一人。

無言のまま店内に入って来て、無言のまま店内を回り、無言のまま商品を見て、無言のまま店内を後にしたという。

友人の店主いわく

怖かったと…。

何をしに来たかもわからんし、何が目的かもわからんし、ただ気味悪るかったと話していた。

 『礼』

と言う言葉がある。人が社会生活上、守り行うべき作法という意味の言葉である。

 『礼儀』

と言う言葉がある。社会秩序を保つために必要とされる人間相互の行動の作法という意味である。ちなみに『作法』とは、物事を行うやり方という意味である。

 礼も礼儀も作法も、ごく普通の一般的な書店に並んでいる、ごく普通の一般的な国語辞典(角川新国語辞典)を引けば普通に乗っている言葉であり、意味である。

 前述した三つのお話は、すべてこの『礼』が無いという話しである。

 人に言わせると、今の時代、礼儀作法なんて必要無い。そんなものが何になると笑う。礼儀など知らなくても生きていけると笑う。では、その笑う人たちに聞いてみたい?

笑う人たち、あなた方は一生、人と関わらずに生きていくつもりですか?と。

なぜなら、礼儀とは、漢字辞典に書いてあるように、人間相互の行動の作法なのだから。さらに、社会秩序を保つために必要とされるものなのだから。人として人間社会に身を置く以上、避けて通れないものなのだから。

それでも…

その笑う人たちは、こう言うだろう…私たちは、人と関わりあって生きていくのが嫌なのだと。人間相互の関係など邪魔くさくて、面倒で、関わりたくないのだと。

 ある四十代の男性に言われたことがある。

誰も居ない山奥で一人で暮らしたいと。パソコン一つ有ればそれでいいと。今の時代、インターネットで何でも買えるし、配達してもらえる。誰とも関わることなく生活出来るのだから、そうやって暮らしていきたいと真顔で話されたことがある。

この男性にこう話したのを覚えている。

人と関わるのが嫌なのはわかった。でも、そのインターネットの向こう側には、やはり人がいるんじゃないのかと。キーボードを叩いている人がいるはずだと。パソコンを動かしている電気だって、確かに機械が作り出しているのだろう。けれど、そこにもそれを管理し続けている人がいる。何でも配達されて便利だけれど、配達してくるのは人間だと。パソコンは機械。機械は壊れるもの。壊れたなら修理しなければならない。その修理をするのは、やはり人なのだと。そして、そこには、『ありがとう』言う『礼儀』はいるだろうと。

人と関わることを礼儀と言うことばに置き換えるなら、人は、どんな嫌がっても嫌っても面倒でも、人と関わらずには生きて行けないのである。

もし、先のパソコンの男性が、山奥に住んでいて、パソコンの修理に業者さんに来てもらったとしよう。そこに『礼』がなければ、一回は来てくれても、いくら仕事だとはいえ二回目はきてもらえないのではないだろうか?人と人と関係はそんなものである。良いも悪いも人間とはそういうものなのだから。だから、礼がいるのである。人間世界で生きていくために。

 『礼儀』とは、さまざまな考え方や思い、バラバラな年齢、産まれも育ちも違う私たち人が、ともに人間の世界で、社会という世界の中で、出来るだけスムーズに、出来るだけ穏やかに、出来るだけ優しく温かく、嫌で嫌いで面倒な人間相互の関係を過ごしていくための人があみだした『知恵』なのだ。

せっかくあるこの知恵を、使わないのはもったいないっ思うのは私だけだろうか?

さて、みなさんは、どう思われますか?

釋 完修
合掌
[2015/02]

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