其の九十四
【 ゆっくりと…そして少しずつ 】
その会長の言葉に、誰ひとり反論できなかった。反論どころか、会社を起こすという事、仕事をするという事の根本の意味をあらためて思い知らされる事となった。
今から二十数年前…『葛』が健康とダイエットに良いとブームになった。葛といえば、奈良の吉野の葛が一級品であることは全国に知られている。当然全国から注文が殺到した。
軒並み葛は品薄となり、各生産業者は今がビジネスチャンスとばかり、設備投資をして増産の形をとった。この会社も例に漏れず、社長以下社員一同、他の業者に遅れをとらんと、早々増産の設備投資にかかる手はずだった。その最中に、前社長、現会長が待ったをかけた。
前述した話は、その時に、社長以下全社員を集めて、会長が皆に話しをした時の様子である。
会長は静かに、皆に問いかけた…
『会社を起こした時に一番大切なことは何だと思う?』と。
一人一人の社員が考えた。利益を上げること!
会社を大きくすること!
店舗を増やすこと!等々さまざまな答えが出た。
会長は静かに首をふった。そしてキッパリと言い切った。
『会社を起こして一番大切なことは、起こしたその会社が…10年20年、50年100年と続いて行くこだ』
『そうでなければ、同じ製品を世の中に提供できない。一度世にだして、みんなが使ってくれたなら、それをずっと提供し続けることこそが一番大切なことなのだから』
その場に居る、社長以下全社員の目の色が変わった…
この会社の『葛』は上質で一級品であった。それゆえに、あまたの高級料亭がこぞって使っていた。また古くからこの吉野の地で店を構えていることもあり、近所のおばあちゃんが、孫が風邪をひいたんでここの葛で葛湯を作って飲ませようと思うと買いにくるお店でもあった。
会長の言葉は、この料亭、このおばあちゃん、ここの葛でなければならないと言ってくれる人達に対して、真っ正面に向き合い、責任を持つと言うこと、それが会社を起こし、ものを売ると云うことなのだと説いたのである。
10年たったので直す部品がありません。
修理用の部品は7年で破棄されるので直せません。
コストがかかるので前のモデルの部品は置いてないです。
まだ、その製品を使って居る人達がたくさんいるにも関わらず、多くの企業は堂々と胸を張って悪びれもせずに言う。そして次の言葉は、新しい物を買った方がお得ですよである。
人が口にする物も
人が使う物も
人が身に着ける物も
世に製品として出し、けれど出しただけで、出しっぱなし…あとの責任は関係ないという今の企業・会社・店の中に置いて、この会長の言葉は一石を投じるものであった。
起業家として、最も大切で基本とならねばならない考え方であった。
一人の社員が手を上げた。『会社を続けて行くためには利益をあげなくちゃならないじゃないですか!』と。
会長は答える。
『その通り。利益はあげなくちゃならない。だからストップをかけたんだ』と。
その社員はキツネにつままれたような顔した。
会長は言葉を続けた。
『ゆっくり…ゆっくりで良いんだよ。少しずつ…少しずつで良いんだよ。急いで急いで、無理をして背伸びをして、他に負けるなとか勝つとか、そんなことに目を奪われてはいけない。急げば必ず、無理をすれば絶対、葛の品質は落ちる、そして結果、うちの葛はうちの葛ではなくなる。それでは責任を果たせないじゃないか。それにブームはいつかは去る。だからブームと言うんだ。ブームに乗る必要は一つも無いんだよ。ブームの去ったあとには、無駄な設備だけが残る。それは経営を圧迫し、会社自体を傾けさす』
この言葉はブームが去ったあと現実の事となる。
多くの店舗が店をたたんだのである。
ゆっくり…ゆっくり。
でも確実に、少しずつ…少しずつ成長して行く!
この言葉は、忙しい忙しいと言い、洪水のように押し寄せる情報の波に押しつぶされ、自分自身を見失っている、いや自分自身を見失っていることすら気づかずにすごしている、現代社会の今の私たち自身にも言えることではないだろうか。
目先の損得や目の前の利益だけを考えて行動する大部分の起業家たちの姿は…
今だけを考え、今だけの幸福を求め、他人より少しでも、損をしないように、得をしたいと行動している私たち現代人の姿とおなじではないだろうか。
この社会全てが…
会社も…
人も…
個人一人一人に至るまで…過去→現在→未来と続いているのだという現実を多くの人は見ようとはしない。
この会長の説く言葉は、そんな私たちに、起業家の真理をときながら、その実、人としての、人間として生き方、成長の仕方を説いていると言える。
こんな話を聞いたことがある。
屋久島に自生する最大級の屋久杉『縄文杉』
樹齢4000年を越すこの屋久杉の成長スピードは他の木と違い大変遅いそうだ。そう、ゆっくりゆっくりと、でも確実に少しずつ少しずつ成長している。
そして、そのことがこの屋久杉を樹齢4000年にまで長生きをさせている一つの理由なのだと言う。
『縄文杉』…それは私たち人が人間として、生まれ→生き→死んでいく、その生き方の指針となるのではないだろうか…
合掌
[2017/06]
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